経済学部生のための基礎知識300題 ver.2 page 278/308
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基礎知識300# 271名古屋・堀川地域と経済社会/地域活性化研究堀川は、自然な川ではなく、江戸時代初期に造られた運河である。誰が何の目的で造ったのか。【解説】□解説ビデオクリップ徳川家康の命により、当時広島....
基礎知識300# 271名古屋・堀川地域と経済社会/地域活性化研究堀川は、自然な川ではなく、江戸時代初期に造られた運河である。誰が何の目的で造ったのか。【解説】□解説ビデオクリップ徳川家康の命により、当時広島藩主だった福島正則が堀川を造った。福島正則は、1561(永禄4)年に、名古屋の西、今の海部郡美和町で生まれた。豊臣秀吉とは親戚にあたり、秀吉につかえ、1583(天しずがたけ正11)年秀吉と柴田勝家が戦った賎ヶ岳の戦いに参加して大きなてがらをあげ、加藤清正などとともに「七本槍」の一人に数えられた。朝鮮出兵にも参加し、1595(文禄4)年に清洲の領主になる。関が原の戦いでは東軍(徳川家康方)に参加し、その功績で1600(慶長5)年に広島の藩主になり、この後美濃や伊勢の大名にも手伝いを命じ、堀川を完成させた。当時、一度に多くの物資を運ぶ手段は船しかなく、町でたくさんの人が生活するためには、町の中心に川が必要であった。このため名古屋台地の西に沿って、城から当時の海岸であった熱田まで掘った川が「堀川」である。堀川の開削工事と名古屋城建設がほぼ同時期に始まっていること、城壁の石が堀川完成前に運ばれているため、名古屋城建設が主目的ではないと考えられている。堀川は、名古屋城の建設と同じ時期の1610(慶長15)年にほり始められ、翌年に完成した。当時は、はばした名古屋城の巾下熱田の海に注ぐ、長さ約6キロ、幅22~87メートルの川であった。ひおき門の近くから始まり、城下町のある名古屋台地の西に沿って、広井、日置ふるわたり、古渡を経て参考文献:『堀川沿革誌』末吉順治著、愛知県郷土資料刊行会【関連問題】年月日1.「堀川七橋」とは何か。こうもん2.中川運河と堀川をつなぐ閘門を何と呼ぶか。