大学はなにをするところであるか。「真理を探究し、人格を陶冶(とうや)する」という言葉につきると思うのであります。聖書に「求めよ、そうすれば与えられるであろう。というイエス・キリストの言葉がありますが、真理が何であるかを知るためには、それを求め、探求しなければなりません。

 私はしばしば「真理は隠されているものである」と申します。道端にころがっておる石のように、また商品のように、誰にでも目につき、お金を出せばすぐに買えるようなものではありません。「真理」はどこにあるかわからない隠されたものであります。さればこそ、探求し、さがし求めなければなりません。大学に入りましてのちは、諸君自らが隠された真理を探究するという態度が必要であります。

 ところでその真理は、先ほどの聖書の言葉にありますように、求めるものには与えられる。新たに開かれる。「幽玄啓明(ゆうげんけいめい)」という言葉を私は使うのですが、真理は隠されている、すなわち「幽玄」である。けれども隠されたものが、いつまでもわからないままでは、これまた真理の値打ちもありません。真理は、それを求めるものに明らかに啓示、すなわち「啓明」されてまいります。そこに私ども、真理を探究する者の望みがある。

 この「幽玄」と「啓明」という言葉をあわせて、「幽玄啓明」ということを私自身、わが名古屋学院大学の一つの理念にしたいと思っているのであります。真理を追究して、それを明らかにしていくところに、わが大学の本当の値打ちがある。

 私が学生のころ、最初に学びました経済学の書物で「人間生活を根本的に動かすところの動因に、宗教と経済がある」と書かれてあるのを知って感銘をうけたのでありますが、まことにそのとおりであります。

 神を愛し、神を敬い、人を愛する、すなわち「敬神愛人」ということがキリスト教主義大学として建学された名古屋学院大学の建学の精神であります。そしてこの「幽玄啓明」と「敬神愛人」ということが相通ずるのである。宗教と経済、諸君は幸いにしてこの二つの動因を結びつけたこの大学で学ばれるのであります。

(「幽玄啓明」[1980.2刊]より抜粋)