特集:漂う日本


 子供の成長を見ながら、人間の認知能力の発達に感心する毎日。言語理論に関心のある者としては、頭の中でどのように言語情報を処理しているのか興味深いところ。
笑わない赤ん坊と日本

須川精致
[Sugawa,Seichi  商学部講師・英語学]          



 旅のきっかけは、歯医者の待合室で退屈しのぎに手に取った一冊のグラフ雑誌だった。その号の大部分を割き、ハンガリーの首都ブダペストの様子が写真で紹介されていた。目にする写真がすべて新鮮だったが、その中でも特に目を引いたのが、ドナウ川沿いに建つ白い国会議事堂の美しさであった。この建物を実際に見ることを口実に、当時大学生であった私はその年の春休みにリュックサックを背負い、一人でヨーロツパへ出かけた。

 チューリヒでブダペスト行きの学割切符を手に入れ、乗り込む列車を待つ間、時間つぶしに駅から歩いていけそうなチューリヒ湖を見に行くことにした。地図によると湖までは目抜き通りであるバーンホフ通りを歩いて行けばよいはずであった。
この通りの両側には、時計店やチョコレートを売る店、あるいは銀行などが建ち並び、通りに彩りを添えている。道端の屋台でリンゴを買い込んだりしながら、湖に向かって歩いていると、通り沿いに一軒の本屋があり、その前で熱心にショウウィンドウをのぞき込んでいる一人の白人男性が目に入った。
彼につられてショウウィンドウをのぞき込むと、フェアをやっているらしく、日本に関する書物がずらりと並べられていた。そこには、生け花や柔道といった伝統的な日本文化を紹介するものがあったように思う。美しい写真を表紙にした本に見入るこの男性の目には、日本という国はどのように映るのだろうなどと考えながら見ていると、彼は、自分の隣に立つ東洋人に気づいたらしく、小さな笑みを浮かべてその場を立ち去った。

 多くの人が、伝統的な日本文化に関心を持つのは、そこに日本人の美意識やものの考え方を見て取り、その価値観、世界観に何か感じるものがあるからであろう。日本にはまた、ブダペストの議事堂のような人々を引きつける美しい建造物もたくさん存在するし、バーンホフ通りのような魅力的な街並みもある。翻って、そこに住む現代の日本人は、人の心を引きつけるような魅力的な存在であろうか。

 アーサー・ケストラーが提唱した概念にホロンというものがある。ホロンとは、ギリシャ語のholos「全体」+on「部分」から出来た造語で、ある組織を構成する各構成素は組織全体の一部でありながら、それぞれ自律的存在である状態を指す。これを社会構造に当てはめれば、それは全体主義的でもなく過度に個人主義的でもない、「個」と「全体」が調和関係にある社会といったところであろうか。
現在の日本社会は、かつて共有した価値観を大きく揺さぶられ、「個」は「個」の価値観を声高に叫び、価値観形成の過程において「全体」とのやり取りが抜け落ちてしまっている。この状態はもはやホロン的ではなく、単なるカオスである。外から見て全くつかみ所のない状態といったところであろう。

 「個」が自律的に存在していればまだ良いのだが、最近「サイレント・ベビー」なる言葉に出会った。小児科医の観察に基づくものだが、表情の乏しい赤ん坊が増えているそうである。赤ん坊は、かまってやればけたけたと笑い、気に入らないことがあれば甲高い声で泣くものである。ところがこれらの赤ん坊は、泣いたり笑ったりすることも少なく、静かで一見手の掛からない良い子に見えるのだが、その実、コミュニケーションを拒絶しているかのような存在に見える。簡単に「キレる」子供や、小学校などで授業が成立しない「学級崩壊」、あるいは、「サイレント・ベビー」のような現象を考えると、ひょっとすると今の社会は、社会を構成する「個」が、「全体」との関わりを持つどころか、自身すら維持できず、内面から崩れようとしているのかもしれない。

 どの時代を生きる人にとっても、その時代は先が見えず、絶えず変化が起こり、混沌とした時代に映るものなのかもしれない。将来も、遠く離れた土地の人々が関心を寄せてくれ、ブックフェアを開催してくれるような存在であり続けたいものである。


図書館報「α」Vol.10 No.2目次にもどる