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チェンジル・マネー 『現代中国学』(中公新書、1997)を読む




高多 亨
[Takata,Toru 調査役:大学院事務室担当]






 このところ中国の辺境を歩くことが多い。初めて中国を訪れたのは20年も前のことで、社会主義国家そのもので〈清々しさ〉があった。2度目は、90年秋天安門事件直後ということもあって〈よそよそしさ〉と〈外国へ出口を求めている〉という印象がありありと伺えた。車は少なく、タクシーも大きなホテルでやっとベンツがつかまり、薄暗い天安門広場を一周した。その後も毎年各地を訪れているが、その間の変化はすざまじいものがある。今では、北京・上海・天津・西安など大都市では車が溢れ、一方、子供のホームレスも多く、市場経済の過酷さが見える。
 
 93年に本学中国語学科の短期漢語研修を西安市の西北大学で実施し、そのフィルド・トリップに新彊ウイグル自治区に行った。この世の桃源郷トルファンで時期が夏だったこともあろうが、小学生ぐらいの子供が「チェンジル・マネー」といって人民元と外貨(¥と$)をヤミで交換していた。日本経済も絶好調の時だけに公定レートより50〜60%高い。当時は、外為銀行である各地の中国銀行の入口でも、あるいは行内でさえ、ヤミ両替をする人々が溢れていた。中国では〈実〉があれば、不条理や不法は無視され勝ちである。こんな光景を見ていると何故¥や世界一の債務国の通貨$をほしがるのか、そもそもそんな$がなぜ基軸通貨なのか……考えさせられる。97年にはこれが一転して、¥と人民元を交換したがっていた。これは、西域の奥地まで訪れる日本人観光客が激減し、闇市場が縮小していることがわかる。10日余の新彊ウイグルの旅から西安に帰って目にした数百人の建築労働者が直接職を求めている姿からも観光客減少が西安の経済を直撃していることが見て取れる。

 中国の人々の行動は、アメリカ流のチャイナ・ウオッチ(情報収集から得た事実を分析)では理解できない。中国4千年の歴史・思想から原理的に見る必要がある。家族主義や「政策があれば対策がある」は、欧米の文明が優位性があると見事にマインド・コントロールされた日本人が楽天的に政府を信用するのと対をなすもので、その度々の外国勢力を含めての為政者の交代がファミリィーと金そのものしか信頼できそうもないことから来るのである。

 加地伸行『現代中国学〜阿Qは死んだか』(中公新書1997)は、現代中国理解には、思想・文化・宗教からその多くを学ばなければならないと。そして、多神教のアジアと一神教の欧米文明の対立を見据えて、「東北アジアの儒教文化圏は、唯一絶対神なき地域であるから、そこにおける個人主義は、ほとんど確立されることなく、安易に利己主義に転化するであろう。日本がその典型である」……「おそらく、その個人主義と最終的に対立するのは、大陸の崩れつつある社会主義ではなく、儒教の家族主義であろう。それがどのような形をとなるか、予想がむつかしい。しかし、おそらくキリスト教文化的な個人主義は、儒教文化的な家族主義に勝てないであろう」(125‐126ページ)と東北アジアでは、長期的にはこの100年ばかり文明が上位にある欧米思潮の退潮を予言している。

 とりわけ、一方の西欧イデオロギーであったマルキシズムの自壊後のアメリカの戦略(絶対的真理と信じて疑わない市場経済やグローバル・スタンダートと称するアメリカン・スタンダートの押付け)は、覇権を維持しようとする焦りから国際機関まで戦術の具とするのも、危機感の裏返しと写る。こうした状況に親米派から嫌米派へ変わった知識人・官僚なども市場経済至上主義と覇権主義へ警鐘をならすことも多くなってきた(本誌9巻2号参照)。市場経済の思想的背景は欧米のキリスト教倫理を前提とした個人主義に根ざしているだけに2〜3世紀後、ハンチントンのいう「文明の衝突」という難しい事態になることが見える。日米の経済関係は、10年まえから今日の日本経済を予測していた飯田経夫『経済学の終わり〜「豊かさ」のあとに来るもの』(PHP新書 1997)がその要因と原理を分かりやすく記していて大変参考になる。


図書館報「α」Vol.10 No.2目次にもどる