特集:キレる若者達

キレる若者達





村田貞雄(むらた さだお)


[経済学部教授・教育原理]



 「キレる」には、実感に裏打ちされた若者の自己表現があるように思う。又、この言葉には、キレる前の緊張状態と事後の自己肯定はあるが、自己反省が不問に付されているところに直情的な刹那主義も感じられる。キレる若者達をエイリアンとみる大人達も、世相を映す隠喩としてこの語を定着させたのだろう。キレる若者現象について検討を加える事実認識も知見の持ち合わせも、今の私にはない。キレには、古今東西を通じ、松の廊下の個人的な刃傷沙汰から、真夏の暑い夜の暴動といった集団的なものまで、その実態には多様さがあり、もつ意味も異なるだろうから。

 子どもに対する親の過保護と過度の期待が、キレる若者を生産する土壌になっている。小学校時代までのよい子達は、周囲の期待に応えるべく懸命の努力をする。しかし、15の春ないし18の選別期が近づく頃ともなると親の期待も頂点に達する。一方学校教育の効用に対する子どもの目は冷めてくる。耐性を育てなかった過保護の親と社会的選別に加担した学校は、その動機が善意に由来するだけに、張り詰めた弦が切れ、態度が一変した若者の挑戦をうけて狼狽する。

 日本の若者について、教育学的には、こんな説明が期待される常識的な回答になるのだろうか。とすれば過度の保護と期待の抑制、学校の選別機能の緩和か又は耐性を育成する教育が肝要となる。しかし、ことは一筋縄ではいかない複雑な問題である。「キレる若者達」は実像か、を問うことも必要だろう。

 本学の学生はどうか。昨年末、授業中簡単なアンケート調査を実施してみた。キレた経験有りは71%、その対象は、世間の人35%、友人22%、父親・母親の各14%、教員10%、政治家は4%である。キレる頻度は極く稀で我慢の大切さを86%が肯定し、キレるまで主観的にはかなり我慢している。本学の学生は、我慢を価値と認識し自覚的によく我慢しているといえる。しかし「堪忍袋の緒が切れる」の意味を正確に理解している者80%に対し、「ならぬ堪忍するが堪忍」は4%「韓信の股くぐり」は皆無であった。知行は必ずしも一致しないが、キレやすい若者も「ならぬ堪忍するが堪忍」と三唱するゆとりをもてば、多少の効能はあろう。ただ、キレないのが若者に期待される徳であるかについては一概には論じられないだろう。

図書館報「α」 Vol.11 No.1 目次にもどる