特集:キレる若者達





「キレ」る子供たちと教育





荻原隆(おぎはら たかし)


[図書館長・経済学部教授・政治学]



 教育現場の荒廃、いわゆるすぐに「キレ」てしまう子供たちによって授業そのものが成り立たなくなってしまうという報道を私たちはしばしば聞かされている。こういう社会現象の背景はつねに複雑であり、単純に決めつけると間違いを犯す恐れがあるのを承知して言うのだが、その原因に「がまんすること」(意志の訓練)を教えなくなってしまった教育、あるいはもっと根本的には家庭・社会があると思っている。教育の目的は知識を与えたり、考え方を深めたりすることだが、じつはもっと大事なことがある。それは、とくに初等・中等教育では、学んだり考えたりすることを通して、「がまんすること」を習得すること、少しむずかしく表現すると、意志を訓練すること、よき志を身につけることである。そして、よき意志が日常化・無意識化するとよい習慣になる。これこそ知識や思考の啓発と並んで、あるいはそれ以上に、とりわけ初等・中等教育の大切な目的なのである。古来、教育の本質は常にここにあったし、それはこれからも変えてはならないものであると思う。
 
 学ぶということは誰にとってもかなりつらいことである。もとより、教師は生徒が興味をもって効率よく学習できるようにさまざまな教育上の配慮をなすべきである。しかし、教える側がどのように工夫をしようと、こむずかしい数学や物理の公式、漢字や英文法や歴史の煩瑣な事項を覚えることがそうそう楽しいわけがない。生徒に無理強いをするのでなく、彼らの自主的な学習努力を引き出すのがよいとよく言われるが、しかし、それとても最初はがまんさせたり教え込んだりすることが必要であろう。「楽しい学校」などというまことに奇怪な言葉を見たり、聞かされたりするたびに私はじつに不快な気分になるのだが、もともと学校の勉強がどうして楽しいのか、少々はつらい、苦しいのが学習の本質である。もし、学習に楽しさがあるとすれば、それはコツコツと努力を積み重ねて少しずつ知識や思考が身についてくるところにであって、それ以外に勉強の楽しさなどあるはずがない。学校で友だちを作ったり、一緒にしゃべったりすることは楽しいであろう。しかし、それは学校教育の第一義的な目的ではない。

 「がまんすること」(意志の訓練)が教育の本質であるといったが、そうむずかしいことを要求しているのではない。きめられた時間に起きること、できるだけ学校は休まないこと、遅刻しないこと、授業は静かに集中して聞き、立ったり座ったりしないこと、私語は慎むこと、トイレは休み時間に済ますこと、毎日一定時間の勉強はすること、遊ぶのは宿題を済ませてからにすること、学校にも社会にも基本的なルールがありそれはかならず守ること、そういったごく平凡なことであり、基本的ながまんである。親や教師はなぜこういったことを繰り返し繰り返し教え込んでいかないのだろうか。周囲の人々がいつも心がけて「がまん」や「ルールの遵守」を実践してみせれば、もっと効果的であろう。

 現代の生徒は強いストレスを感じていてすぐ保健室に行くらしい。ある保健の先生がテレビ局のインタビューに「親身になって話を聞いてやるのは私たちぐらいですよ」と、とくとくと答えていたが、私はあきれてしまった。ストレスにも程度があり、体調がひどく悪ければ別だが、人間は生きているかぎり、少しは熱があったり、頭が痛かったり、ムシャクシャしたり、気分がすぐれなかったりするものである。けれども、勉強することは生徒の大切な役目なのだから、少しぐらい体調が悪くても怠るわけにはいかないのである。私が保健室の先生なら「多少の体調の不良ぐらいでこんなところへは来るな、教室に戻って授業を受けなさい」と叱るのだが、こういう先生は反動的と言われるのだろうか・・・。

図書館報「α」 Vol.11 No.1 目次にもどる