特集:キレる若者達





「キレる」と「言葉の科学」との関係−言語学への誘い−





赤楚治之(あかそ なおゆき)


[外国語学部教授・言語学]



 今から二昔ぐらい前の話、学部学生であった僕は言語学の入門コースを履修していた。ある時、先生が「言語変化」についての講義をされている途中に、教室で「意味の変化」についての簡単な調査をされた。「気のおけない奴」という表現の解釈を問うものであった。それまで僕は自分の解釈と異なる解釈があるとは全く知らなかったし、半分ぐらいの学生がその解釈でしか使わないとわかった時には本当に驚いたものだった。このような体験のせいもあってか、僕は、授業中に自分がその時に研究していることを調査することがよくある。それは自分の研究のためというよりは、むしろ、言語学的な分析を学生が経験することによって、言語学を身近なものに感じてもらうためである。例えば、「太郎は来た」は肯定文だが、「太郎って来た」はどうか?「アメリカ人って長身」の場合はどうかなどである。それが学生たちには奇妙に映るらしく、「先生っていつもそんなことを考えているんですか?」と言われたりすることもよくある。ちょっと距離を置いて考えると、そのような学生のコメントは正しいかもしれないという気になるし、世間一般の人から見れば、「この人一体何をしているのか」ということになるのかもしれない。しかし、何と言われようが、やっぱり言語学は楽しいのである。

 「言語は時間と共に変化する。(=「言語変化」)」これは言語学の基本概念であるが、これ自体理解することはさほど難しくはない。高校生のときに『源氏物語』や『枕草子』など古典の授業で苦労したことを思い出せばよいし(最近では森鴎外の『舞姫』も読めなくなってきているらしい)、ShakespeareやChaucerの英語も高校までの英語学習では読めないことからもわかる。しかし、それらは比較的長い時間軸をとって見た場合の変化であり、言葉の変化が現在進行形で起きているというのはなかなか実感としてはわかりづらいところがある。

 それでも、流行語や新語といった語のレベルでは、変化の度合いが顕著なので、言語変化を身近に感じることができる。特に学生たちが使う若者語は流行り廃れが早く、その分、彼らにはわかりやすい。今の学生には、生まれた頃に流行った「エガワる」(プロ野球の江川事件から)という語を知っている者など誰一人いない。「チョベリバ」など、ほんの2年ぐらい前にマスコミ等で取り上げられたコギャル語だが、今こんなことばはギャグでも使えない。若者ことばを研究している米川明彦氏は、昨年、流行語となった「キレる」(「きれすん」を含む)、「むかつく」等は、コミュニケーションを拒むという心的状況を反映した、エゴイスティックな言葉であると分析しているが、出来るなら、そのような(意味での)言葉が一過性のものであって、日本語に定着しないでほしいものだ。

 言葉の変化は、そのような語彙だけにかぎられることではない。昨年に出た井上史雄氏の『日本語ウォッチング』(岩波新書:1998)は、「日本語の乱れ」として言われている日本語の変化(「ラ抜き言葉」や「平板アクセント」等)を、約20年にわたる全国的な調査で検証し、耳新しい言葉の出現の背後ではたらくメカニズムや日本語の変化の大きな流れを論じた好著である。「言語変化」の大きな流れと言えば、約80年前にエドワード・サピアが書いた高度な言語学入門書である『言語:ことばの研究序説』(岩波文庫(安藤貞雄訳):1998)が思い出される。この本には、エキゾチックな言語からの例が豊富にあり、サピアの深い洞察力に感銘を受ける。「言語変化」とは直接関係があるわけではないが、青木晴夫氏の『滅びゆくことばを追って』(岩波書店:1998)はお勧めの一冊。1972年に三省堂から出版され、絶版になっていたのが、今度は岩波書店の「同時代ライブラリー」に入ることになった。1960年夏からのアメリカ先住民族の言葉であるネズパース語のフィールドワークの記録だが、一日本人言語学者とネズパース族の人たちとの心温まる交流が瑞々しく描かれている。

図書館報「α」 Vol.11 No.1 目次にもどる