特集:新世紀への展望

21世紀日本の国際競争力





小井川広志(おいかわ ひろし)


[経済学部助教授・国際経済学]



 日本経済は、21世紀の将来にわたってますます繁栄していく。こう考える論者は、ほとんどいないのではないか。悲観的にならざるを得ない理由が、いくらでも指摘できるからだ。  日本の経済力を支えてきたのは、製造業における高い生産性であったと言われている。なるほど、日本は加工貿易で付加価値を付けることによって、今日の繁栄を築いてきた。しかし、産業空洞化や理工系科目の著しい学力低下、勤勉性の喪失、高齢化などによって、これまでのような競争力が維持できると考えることは現実的でない。製造業の拠点は、むしろ次第に周辺の国々にシフトしていくであろう。そうすると、国際競争力を持つ産業は、日本国内から次第に姿を消していくことになる。こう考えていくと、日本経済の将来について、我々は明るい展望を見出すことが難しい。

 それでは、製造業の地盤沈下は日本経済の停滞と同義なのであろうか。必ずしもそうではない、というのがここでの私の主張である。実のところ、日本経済の競争力は、非常に多面的なのである。その多面性は、海外、特にアジアで生活をした場合に痛感するに違いない。  日本人のサービスは、過剰と感じられるほど、繊細できめ細かい。ほとんどの日本人は、アジア諸国のレストランに行くと、その態度の悪さに不快となるらしい。散髪やクリーニングなどの対応にしても、技能が未熟な上に、態度もぞんざいで味気なさを実感するであろう。普段、我々がいかに濃厚なサービスに漬かっているかがわかる。これは、言うまでもなく、日本人の過剰な要求に日本のサービス産業が適応してきた結果に他ならない。日本のサービス財の品質は、需要に刺激されて十分に高い(高すぎる?コストも)のであり、国際競争力を発揮する潜在力が多分に残されているのである。

 例として、アジアのミュージックシーンを考えてみよう。アジアでは、華僑が最大の音楽マーケットになっているが、そのマーケットは、驚くべきほど新陳代謝が悪い。一例を挙げれば、「四天王」と呼ばれている4人の男性歌手の人気が圧倒的なのであるが、私の知る限り、彼らはもう十年以上も「四天王」として芸能界に君臨しているのだ。その間、彼らは、ほとんど代わりばえのしない歌を、消耗品のように単純に生産し続けている。彼ら自身の芸域が広がってきたとも思えないし、また、彼らの存在を脅かすようなライバルも、不思議と登場しないのである。あれだけ食道楽の中国人が、片や音楽サービスについては著しく低い質で満足しているのは、私には不思議でならない。

 それだから、日本のアーティストがアジアで少しのプロモーションを行えば、その目新しさからか、香港や台湾の若者は釘付けにされるのである。なるほど、「四天王」たちの代表曲のいくつかは、実際にも、サザンや牧原敬之の曲のカヴァー・バージヨンなのだ。日本のポップスが持つ競争力に、我々は十分な自信を持って良いのである。  同じ事は、年間数十本製作される日本のテレビドラマにも当てはまる。とにかく、アジアのテレビ番組は工夫やひねりが少なく、退屈で、観ていてすぐ飽きる。これは香港での話だが、テレビが退屈なので、VCD(ビデオCD)がよく売れるらしい。よく売れるとなると海賊版(コピー)が出回るのも香港らしいのだが、そこで面白いのが、出回る海賊版VCDの殆どが、ハリウッド映画か日本のテレビドラマなのだ(もちろん中国語の字幕付き)。「理想の結婚」や「星の金貨」は、一時期、香港で大ブームになっていた。売れないVCDを、わざわざ海賊版で作ったりはしない。地元のテレビ番組ではなく、日本のドラマがVCD屋の店頭に並んで売り切れる、ということは、そのドラマが市場で競争力を持っている、ということに他ならない。日本のテレビドラマの中には、其の実、大変出来の良いものがあり、それは十分に国際競争力を持つのである。

 結局、日本経済の競争力の源泉は、真面目さ、協調性、凝り性、そして(通説に反して)創造性豊かな点などにもとめられるのである。これらの諸要素が、これまで、たまたま製造業の局面において開花したに過ぎないのだ。したがって、その優位性が第三次産業でも存分に発揮されれば、日本経済のより一層の発展が期待できるかもしれない。  ただし、もしこの見方が正しいとすると、我々が講義で教える経済学の体系も、大きな修正を迫られることになる。経済学は、基本的にモノ作りを念頭にしてその体系が組み立てられているからだ。そう言えば、日本の大学教育サービスは、国際競争力をもっているのであろうか?時代の変化に応じて、教育者・研究者である我々自身の技術革新も求められているのである。

図書館報「α」 Vol.11 No.2 目次にもどる