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21世紀と「生きる力」





北川保(きたがわ たもつ)


[経済経営研究科経営政策専攻博士(前期)課程・1年]



 新聞に「夢をはぐくむ社会目指せ」(5/16産経)と出ている。日本青少年研究所が日米中韓の中高生に実施した「21世紀の夢に関する調査」によると、日本の生徒は未来に無関心という。他方「『人間開発指標』で日本4位」(7/13毎日)とも出ている。国連開発計画の99年版「人間開発報告」によると、所得水準と平均寿命、教育水準を総合した「人間開発指数」で、日本は前年の8位から4位に上昇したという。各国で若者に出合う時、2紙の記事はともに事実であると思う。

 私は中学・高校で社会科(公民科)を担当している。小中高校の社会科の目標は、「善き公民・市民を育てること」で一貫化している。戦後、日本の教育は「国家のための教育」から「個人のための教育」に転換した。公民教育は「善い市民」を個人的な関心を満足させるのに必要な限りにおいて政治に参加する市民と捉える自由主義的な見方を採ってきた。しかし今、「善い市民」を公的な熟慮・決定・行動の過程において十分に論争し、相互に納得する市民と捉える共和主義的な見方を蔑ろにしてきた、という反省がなされている。  「生きる力」が21世紀に向けての教育のキーワードである。新聞の論壇に有馬朗人文相は「『生きる力』をはぐくむ教育」(6/11朝日)を説き、『東京理科大学』巻頭言に西川哲治学長は「自画像を描き、生きる力を」を書いている。「生きる力」は初中等教育のみでなく、高等教育の課題でもある。「生きる力」とは、子どもたちが自分で課題を見つけ、自ら学び考える資質や能力、自らを律しつつ他人と協調し、他人を思いやる心や感動する心、たくましく生きるための健康や体力などをいう。小中高校における「総合的な学習の時間」の新設、私自身のディベート(討論)やNIE(教育に新聞を)の授業はそのためである。

 若者に多くの光も見る。昨年、一昨年と勤務校のチームは、全国高校生ディベート大会で準優勝した。昨年の論題は「日本は積極的安楽死を法的に認めるべきである。是か非か」であった。安楽死は極めて価値命題的である。けれども、ジャンケンで肯定側か否定側かを決めるのは相対主義である。生徒たちはディベートがなぜ成り立つのかを学び、安楽死を通して個と社会との関連に目を向ける。また、日経新聞は論文「21世紀と日本」の受賞者を発表した(7/11日経)。大学・大学院生部門最優秀賞を受賞した深瀬晋太郎さんは「グローバル時代の日本社会」と題して、「地球市民社会の実現」を主張する。もともと市民という言葉は、フランス革命のころのcitoyenという語から出てきたもので、英語の辞書には「citizen=国への義務を果たすことと引き換えに、国から保護してもらう権利を手にした人間」とある。かつてある弁護士は「なにびとも見る権利あり秋の月」という迷句を詠んだが、見るのは権利ではなくたんなる自由である。自由や権利は憲法に保障されて初めて基本的人権となる。

 「大学全入時代 今春で実感?」(7/4日経)や「専門大学院を来春創設 文部省方針『即戦力』の人材育成」(8/24朝日)と新聞は報じ、日本は学歴社会から学習社会に移り、大学は「生きる力」を涵養すべく実学志向へとシフトしている。本来大学院に学ぶ私たちも時代の子である。ただ「一般教養科目は、現代世界でいかなる問題が挑戦されるべきかを捕らえるのにまことに枢要である」(佐々木力著『学問論』)ことも真実である。

 A.H.マズローは『人間性の心理学 モチベーションとパーソナリティ』の第4章「人間の動機づけに関する理論」で、欲求5段階説を出している。生理的欲求に始まり5段階目は自己実現である。「人は自分に適していることをしていないかぎり、すぐに新しい不満が生じ落ちつかなくなってくる。(略)人は自分がなりうるものにならなければならない。(略)このような欲求を自己実現の欲求と呼ぶことができるであろう」と記す。またダニエル=ゴールマンは『EQこころの知能指数』で、いかに知識の量が多かろうと、心と人間性を欠く人は社会人としても家庭人としても不適格である、と豊富な実例を挙げて主張する。  人は社会的存在であり、求めるべきは「社会で生きる力」と「自分に生きる力」とである。

図書館報「α」 Vol.11 No.2 目次にもどる