特集『この秋に読みたい一冊の本』
鈴木重樹
[Suzuki, Shigeki 外国語学部教授・英語]
『釣魚大全』
(ちょうぎょたいぜん、The Compleat Angler
)
イギリスのエッセイスト、アイザック・ウオルトンの随筆。初版は1653年。筆者の増補とチャールズ・コットンの筆になる第二部を加えた76年の第五版が標準版。釣師、猟師、鷹匠、その他の人物の対話形式で、魚の生態や料理法に触れながら釣りの技術が語られる。釣りの楽しみを語っていて、実はイギリスの古きよき時代を懐かしく回想し、自然に包まれた素朴で静かな生活の礼讃が作者の真意で、心の記録ともいえよう。聖書に次いで広く読まれたといわれる。
(相賀徹夫編『日本大百科全書』小学館発行1986より)
図書館から「この秋に読みたい一冊の本」で書くよう依頼されて、さて、困った。僕は職業柄大きな机を持っていて、秋の三月をかけて読むような本は充分に積んでおける。しかし今僕の机に広げてある本と言えば、『週間住宅情報』。長らく住んだ借家も子供の成長で手狭になった。4畳半に2段ベッドで寝ている子供のプライバシーを考えろ、と女房は言う。この横が『ユニックス・マガジン』。我々人文学徒にもコンピュータ化の波が押し寄せ、これを知りませんでは教員が勤まらない。と言ってあの奇妙・不可解なウインドウズに馴染む気もせず、ユニックスの導入を検討するのは教員としての義務でもある。これら二冊の下で広がるコピー刷りが『1997年度授業計画書』の山。提出締切が近いのに、来年の授業総時間数が未定だ。このままでは教務委員失格ならまだしも、最悪の場合には来年の学部授業が出来なくなってしまう。早く決定しなければと、僕は焦っている。
こんな雑然とした机で僕は授業の予習をする。例年なら予習は春休みに完了しておくのだが、今年は忙しいことが重なって、予習は毎回の授業前という有様だ。
学生は僕たちを教員という一面でしか見ていない。
一週数コマだけの授業をして、あとは自分の自由時間、結構なことと思うだろう。しかし諸君よ、教員もまた職業であり、授業をするということはこの職業の部分に過ぎない。大学という組織の中でこの職業を全うするには教育に加えて、校務分掌という仕事が重くのしかかる。
名古屋学院大学の教員というのは僕の全人格の一部でしかない。僕は家族を持っていて、僕に潤いを、時には煩わしさも、与えてくれるこの家族を日々飢える事なく、笑って過ごさせたい。可能なら少しでも広く、せめて一人一部屋は与えたい。家族が平穏に暮らすには互いが顔を合わせる時間と同様、互いが顔を合わせずにすむ時間も必要だからだ。
僕には暇がない。こんな僕がもし『金枝篇』か『釣魚大全』でも読んでいたら、僕はむしろ自分の職務に不誠実と責められるだろう。職を失い、家族を路頭に迷わせ、食を得るに悪事を成すほかなく、社会の悪根となる。今日も僕は忙しい。諸君の両親、日本全ての社会人と同じく、本も読めないほど僕は忙しい。
「晴耕雨読」は空想である。飢饉に襲われた人は晴れに耕し、雨の日は家中で薪割に精を出さねばならない。薪を担いで売り歩く途上にも本は読めると人は言う。だが今日の糧を少しでも多く得るには、本を読みながら歩くよりは次の顧客へ走って行った方が効果的だ。少資源国日本の労働者は蓄えもなく、日々を仕事に駆け抜ける。文学的喜びとは無縁だ。
だがこの日本にも食に窮せず、その義務はただ学ぶことと試すことだけ、と言う特権階級が存在する。大学生である。
思い出す。僕は学園紛争中に大学生活をおくった。
大学は封鎖され、年間を通して授業はなく、有り余る暇があった。下宿なので家族的気苦労もなかった。潤沢ではなかったがそこそこ食べれる仕送りも親からあった(感謝)。そして文学の感動を享受するには、あらゆる生産活動から切り離されたこの環境が絶対に必要なのだ。遅刻して出校し、失職の危険あるのに夜更けまで『明暗』は読めない。「世界まる見えテレビ」にチャンネルを合わせた家族の横で『非の器』を開く精神は或る意味で異常だ。
この秋読む本は、僕にはない。僕はあの恩寵の様な大学時代に文学作品も批評論も文学史も、もう充分読んできたし、心動かされたその何冊かを読み直す暇も今はない。もし暇ができれば、この職を誠実に保つに必要と思いつつも、読めずにいたいくつかの学術論文を、駆け回る子供を叱りつけ、収支のアンバランスを嘆く女房を慰撫しながらでも、完読したいものだ。