特集『この秋に読みたい一冊の本』
読み始めたら止まらない!!
松本宏一

[Matsumoto, Koichi 研究情報部調査役]

ローマ人の物語 I 〜 ?


塩野七生著 新潮社


 たとえば、ここに一人の外国人がおり、親の代からこの国に住み「納税」という市民の義務は果たしながら、選挙権も被選挙権も与えられず、国籍の違いをタテに公職への任用も制限されているとすれば、ローマ人はこれを未解放奴隷と呼ぶだろう。けだし、納税義務のある奴隷など彼等にはとうてい理解の外なので、蛮族の閉鎖的慣習として侮蔑したかもしれない。
 古代ローマ社会では家庭内外の労働の担い手として奴隷は不可欠の存在であったが、主人の信頼がめでたければ「解放奴隷」として市民権を得ることはさして珍しいことではなかったらしい。否、むしろ彼等こそは生粋のローマ人に劣らず愛国心にあふれ、社会のあらゆる分野においてめざましい働きをみせた。
 この異文化、異民族との積極的な同化融合性向こそがローマを「世界国家」として発展させた原動力であり、古代ギリシアの都市国家アテネの「純血主義」の内向的な民主政体と好対象をなしている。
 軍制においてもローマのそれは自国の軍団と同盟諸国からの兵力提供による一種の「多国籍軍」であり、保護者と支持者による相互協力体制こそ、家族から国家間の関係にまで貫徹する重要な要素なのである。
 さて、歴史書のおもしろさは、読者の「なぜ」に答えてくれる実証性の確かさと、同じく読者の「想像力」をかきたてる迫真の筆力、そして新しい視点で定説を修正するスリルだと思うが、本書はこれら読者の贅沢な要求にすべて応え得る稀有な例といえよう。
 この世紀末に2006年まで年一巻のペースで刊行していくという著者塩野七生氏の壮大な構想もさりながら、いまさらながら「ローマ」が後世のヨーロッパ世界に与えた影響の深さに思い知らされるのである。
 とりあえずはローマ前史というべき王政時代、次に直接民主制の理念が内実を持っていたもっとも「健康」な共和制時代、そして地中海世界の覇権を握るにつれて、皮肉にも共和制ローマあるいは精強無比のローマ市民兵の中核をなしていた独立自営農民層の解体と産業(農業)の空洞化、階層間対立の激化にともなう共和政体の崩壊と軌を一にする「元老院」の無能化があらわになるとともに、それに代わる「独裁制」をもって国家の立て直しをはかろうとしたカエサル(シーザー)の登場…といよいよ舞台は大きな転換期を迎える。
 なかでも圧巻は第二巻「ハンニバル戦記」で、「右肩上がり」とはいえようやくイタリア半島に勢力を伸長したばかりの新興ローマと当時まだ肥沃だった北アフリカ沿岸に位置し、かつ西地中海随一の貿易立国カルタゴとの三次にわたる覇権をかけた戦い(ポエニ戦役)は、無類のおもしろさ、歴史の教訓を示している。
 特に第二次ポエニ戦役に登場するカルタゴの天才的智将ハンニバルとローマの総力をかけた16年間にわたる戦いは、その会戦の場がほとんどイタリア半島であることからわかるように「本土」でのそれであり、トレッビア、トランジメーノそしてカンネと完膚なきまでにハンニバルに敗れたローマが、崩壊の危機にありながら、それでも頑強に共和政体の原則を曲げず、政治・軍事の最高指揮官である複数の執政官を一年ごとの任期で選び(それゆえ主な戦場では一日ごとに軍の総指揮権を交替するという非常識も当然のごとく実行するのだが)、諸勧告と承認権をもつ元老院、立法権と政府高官の選挙権をもつ市民集会、平民階級の権益を守る平民集会、その代表で拒否権をもつ護民官制度などを厳然と維持し続けたモノスゴサは、どこやらの「民主主義」のチャチさとは比較にならない。
 加えて同盟諸都市(国)との強力な、一種の安全保障体制が、遂にハンニバルを戦術的勝利者とはなしえても戦略的なそれとはしなかった事も考え合わせると、当時としては類例のない開かれた連合国家の感さえ覚えるのである。
 歴史の皮肉はカルタゴを打倒して地中海の覇者となったローマがやがて上記諸制度のコントロールを困難とし、次第に「勝者の苦悩」をあらわにしてくる。 興味のある人はギボン(Edward Gibbon 1737-94 )の大著「ローマ帝国衰亡史」を合せて読まれることをお薦めする。どちらも真の意味で良質の歴史書である。