嗤う人造人間
中村至朗
[Nakamura, Shiro 経済学部教授・経済原論]
「私はグルメ」いや「ファッション」と人生エンジョイ派の面々は、毎日一抹の不安の中でも豊饒な生活を楽しんでいるから無縁のことかも知れない。いや、その不安の種を顕現させることも時には大切、とりわけ世紀末ともなれば重要な意味を持つのである。
英国産業革命の進展と共に生きたD.リカードは古典派理論の確立者であるが、労働と資本(人間と機械)を相対立するものとして把らえ悲観論に陥るが、その弟子J.S.ミルは楽観論であった。その差異は労働の定義に帰着する。いまそれを現代の情報化社会に置き換えた場合、人間は果たして人間として幸福に暮らせるというのであろうか。兵庫県南部大震災を例にとっても、この極度の情報化社会にあって被害の概要すら迅速的確に把握できず、その姿は独立戦争時のインデアンの煙信号以下の情報しかえられなかったのである。すなわちコンピューター情報の利便さの反面、不安定でゴミが多いのであり、ゴミを作るのも人間、それらを除去するのも人間である。
冒頭の「人は何故不安なのか」を尋ねよう。日本社会はシステムとして救助のメカニズムが欠如しているのである。またかつての公僕が警察国家に変容しても一人の女性の人権、市民の安全も保障し難いのである。いまパーティで君が倒れたと想定せよ。その後の対応は英国社会とは大いに異なるのである。
銀行マンもATM
を使う。私の場合’92年末英国より帰国し12/31新年用に80万円を近くのBK(さくら、夙川)で引出した。それに1枚5千円券が混入していた事件である。早速正月明け1/4支店長に電話で事情を説明し、かれは次長を伴って来訪、「機械は正しい」と主張を繰り返した。結局BK側は5千円を返却した。その直後、改装し当該機は入替えた。
最近身近に起こったケース。’96.5/1友人の杉本氏が同じ銀行の神戸営業部C
Dコーナー第6号機で体験した。投入口で枚数を確認して9万円を入れた処「もう一度やり直して下さい」として8万円が返ってきた。かれは直ちに係員を呼出し「9万円が8万円になっている」と抗議した。「メーカーに点検させて確認します」その後数次の交渉結果、5/20「自動機は正しい」(村井)と回答し、さくら側は1
件落着の姿勢、こちらは納得できない。このような事例は水面下に頻繁に生じており、BK側は信用第一と言い乍ら、資産家以外はもはや客とも人とも思わぬ大資本の横暴を露呈している。大和銀行事件、住専の不正処理、天下り等、日本金融スキャンダルは果てしなく続く。件(くだん)の護送船団は一体どこへ向かうというのであろうか。
19世紀末、先人は二つの遺産―科学的精神とアールヌーボーの芸術―を残した。今世紀、人間は新しい芸術を志向すると共に、2回の世界大戦を経験し、いま尚各地で局地戦は終熄の兆(きざし)を見せていない。
周知のノーベルはダイナマイトの発明で巨万の富を得、それが原資となっている。その発明品は戦争でまた平和でも大活躍中である。ひるがえって原子力はどうか。フランスや中国で強行される核実験は、メッテルニッヒの能弁を以ってしても何の正当性も存在しない。平和利用についても電力各社は良質・低廉無限の電力を提供すると狂奔するが、核廃棄物の処理は地下数百メートルにコンクリート詰にして埋設する等の案は笑止千万である。根本的な処理方法を再検討し、且つこれ以上ゴミを増やさないという人類の英知が求められる。
結論しよう。ここに現代人の抱く不安の本質が明らかとなった。先進技術も産業革命の延長線上にある。人間が機械を作り、それを利用し、やがて人間と機械が対立し、「機械が正しい」として、人間が機械に支配され隷属したときに、恐るべき光景が出現するのである。
’94.4月中華航空エアバス墜落事故、F1ドライバーセナの死亡事故等は人間とコンピューターの葛藤が出現し、悲愴な結末を示したものと言える。BKも、客を待たせる番号札機ではなく、複数のカウンター機(枚数点検)を設置し客の安全を図るべきであろう。