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榊原英資『進歩主義からの訣別〜日本異質論者の罪』(読売新聞社、1996)を読む


高多 亨

[Takata,Toru 大学職員・総合企画局]



<新古典派経済学 neo-classical economics>
 新古典学派という名称は通常1870年代の限界革命あるいは一般均衡理論の形成以後の経済学を指すと考えられるが、今日、新古典派経済学の名称の下に議論されている経済学は1930年代以来のJ.R.ヒックスやサムエルソンらによる価格理論ないしミクロ経済学とその応用である。
 新古典派経済学は、近代経済学一般とともに論理実証主義の立場にたち、いくつかの基本的前提(公準)から論理的演繹によって反証可能な命題(仮説)を得、その仮説が経験的事実によって反証されるかどうかをたしかめるという方法論に立っている。(大阪市立大学経済研究所編、岩波書店発行「経済学辞典」より)

 1980年代半ばサンタフェ研究所で「色々な現象の起因」を人文・社会・自然科学の研究者が集まり討議した成果は、経済学では ‘複雑系の経済学’としてブームとなってきた。いうまでもなく経済は複雑系であり、ようやく学界でも気が付いた感じであるが、文部省は京大経済研究所に複雑系経済システム研究センターを開設し、集中的に研究が開始された。経済現象は、それぞれの歴史や文化に依存しているという「経路依存性」に着目(奥野正寛等『経済システムの比較制度分析』東大出版会、1996)、一つの文明圏から生成された経済理論が他の文明圏の経済現象の説明もできるという普遍性は、必ずしもないと考えられている。だが、日本では戦後50年あたかも西欧文明圏を基盤とする新古典派経済学が普遍的原理を持っていると思われていた。しかし、この原理もたかだか200 年間、ごく限られた地域と10%程度の人々に支配的なパラダイムであり、このパラダイムの恩恵は、資源の収奪と大量生産、大量消費、大量廃棄で成り立っており世紀末に至って閉塞感に陥っている。 ここ数年来、経済学の動きは激しく、研究者として大成した人達がこの新古典派経済学パラダイムに異議を唱える(P.Ormerod・斉藤精一郎訳『経済学は死んだ』ダイヤモンド、1995、M.スコーセン・原田和明他訳『経済学改造講座』日経、1991、J.D.ヘイ編・鳥居泰彦訳『フューチャー・オブ・エコノミックス』同文書院、1992)、並木信義『幸福の経済学』(東洋経済、1994)、宇澤弘文『制度資本の経済学』(東大出版会、1995)、佐和隆光『資本主義の再定義』(岩波、1995)など明らかにこれまでと異なる種類の出版物であり、一方では新しい理論を持った若手が台頭してきている。制度化された経済学の現状を、中村修が「惑星地球の経済哲学3」(『経済セミナー』97年6月号)に活写している。
 こうした状況のなかで出版された本書は、ミスター¥といわれる現大蔵省財務官榊原英資氏が財政金融研究所長在任中の’94〜96年にかけ、戦後日本を主として経済思想面から総括した論文集またはエッセイである。「驚いたことに」というか「さすが」というか、研究所では当時「21世紀の経済・社会システムを考える研究会」が組織され、原理的に思考する有力な研究者を糾合して徹底的に議論されていた。その後、アジア研究会を組織。アメリカ型知的フレームワークからアジアの論理を通して21世紀を、あるいは過去の歴史をみる機会に恵まれることになった。こうした経験を吸収した著者榊原氏自身ミシガン大学でPh.D.を取得し大学での教授を経験し、西欧文明とそれを純化させたアメリカ合理主義、経済学では新古典派パラダイムという“普遍主義”を十二分に理解した政府中枢の人物であり、本物のエリートといえる人物である。
 このような背景のある人物が「戦後の原理は、進歩主義であり日本の新古典派もマルクス主義も西欧文明をモデルに日本社会を遅れた・異質な社会とし日本を近代化する、即ち西欧文明の原理(経済では完全に均質な情報を有する企業と個人を想定した完全競争市場)に組み換える必要性があり、西欧文明が唯一正しく・普遍性がある原理と錯覚させてきた」と言うことは重いものがある。考えてみれば、歴史的に一つの文明が他の文明を凌駕し続けたことはなく、現在優位性があるとみられる西欧工業文明の優位性は、普遍性があるからではない。換言すればその原理は、一神教である排他性の強いキリスト教をベースとした地域に有効である。その歴史も近・現代の短期であり「冷戦は西洋文明圏内の内戦であり、イデオロギーとしてマルキシズムに対して新古典派パラダイムが構築されたが、社会主義という対抗イデオロギーの自壊によってアジアでもアングロ・サクソン的普遍主義が極めて強く表われ、新しい対抗イデオロギーが生成しないうち世界を覆いつくすように見られるが、だからと言って普遍性がある訳ではない」ことは、現在の資本主義社会の閉塞性を見れば自明である。これを打破する方策として方策として著者は、二元的価値観で多神教的寛容さを持つアジア文明圏のパラダイムを取り込んだ新しい“普遍主義”を生み出すことを主張している。なお、佐和隆光『日本の難問』(日経、1997)を併読するとわれわれの座標が確認できる。

図書館報「α」Vol.9 No.2目次にもどる