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2001/12/11
室積 光(2001)『都立水商!』小学館
つまり都立高校で水商売を専門にする高校が設立され、その在校生、教員、校長らの活躍を小説にしたものである。筋立てはいかにもありそうで、起こりそうな事件が起こり、ありきたりの結末を迎える。
しかし、そのように書いてしまって、ありきたりの結末を「ふーん」と馬鹿にしてしまうのもいいだろうが、それだけで終わるのなら、その人のものの考え方はそれだけのことだったんだろう。ありきたりだろうとなんだろうと、この小説に書かれている一つ一つのエピソードには(少しだけでも)感動するし、忘れてはならないものだと思うからだ。
やっぱり、野球部の活躍のところが一番のクライマックスなんだろうな。
2001/11/27
鎌田慧(2001)『原発列島を行く』集英社新書
本屋の新刊コーナーで何気なく手にとってそのまま買って、時間が空いたときに読んでしまった。原発のことは断片的には知っていたが、これは全国の原発の立地点の話題を一冊にまとめた本で通読すると原発のある場所で何が起こっているのか、これまで何があったのかがよくわかる。私が原発に断片的にでも関心を持つのは、第1に、実家のある鹿児島県串木野市の隣の川内(せんだい)市に九州電力の原発があることである。海を隔てて10kmくらいのはずだ。ちょっとした事故でも大変な惨事になるのに、立地の時には自分の周囲で話題にもならなかった(小学生の頃参考書を見ていたら地図にそれが載っていて驚いたことがある)。お上のやることに文句を言わない土地柄なのか、知らない間に土足で入り込まれてしまって、それが当然のようになっている。だまされているようで(実際にその通りだが)不愉快である。第2に、広島で大学生活を送り、原爆の被害、特に放射能がもたらした被害をいろいろ聞かされたことである。「平和利用」というのは結構なスローガンだったが、原発の廃止という「後戻りする勇気」も必要ではないのか。それとも、そんなことは先刻ご承知で、原発を使った「発電」以外の別な意図が隠されているのか。原発のことを考えるといつもこの疑念が頭に浮かぶ。
2001/10/19
斎藤孝(2001)『声に出して読みたい日本語』草思社
「日本語の宝石を身体に埋めておく」というコンセプトで、暗唱をすることを前提に出来が上がったテキストである。
古事記から萩原朔太郎まで、そして、歌舞伎の口上から早口ことばまで、日本語として我々が大事にしてきたものまで詰め込んだ本である。「暗唱」ということや「技」という考えは著者の根幹にあるように思われる。ご家庭に一冊?
一つだけ僕が気に入っている、この本で取り上げられていた詩を...
「やは肌をあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」(与謝野晶子『みだれ髪』)
時代背景を考えればあの時代にここまで言えた晶子には憧れしかないのだが、それは別にしてもいい詩だと思う。
「道」って、どれだけの価値があるんでしょうか?いえ、否定するわけではないのですが...
2001/10/12
本の雑誌編集部(編)(2001)『日本読書株式会社』本の雑誌社
たまたま行った本屋の新刊書コーナーで見つけた。要するに、「こんな本が読みたい」という悩み、お尋ねをして、それに回答者(複数)が答えてくれるという、そういう本である。もとは、本の雑誌社がそういうサイトを作って、そこに質問を寄せてもらい、そのサイト上で答えるというしかけ。この本は、そのサイトのやり取りの2000年の分をまとめたもの。
お尋ねの例
(1)仕事が暇で、脳みそが腐りそうな日々を過ごしています。このままだと社会人4年目にして会社人間落第です。モチベーションを高めるような、刺激的な本を教えてください。
(2)もうすぐ失恋しそうな予感の31歳(女)です。「男がなんだ−!けっ!」と吉田伸子さんふうにいえるような...元気の出るおすすめ本を教えてください。
というような質問にそれぞれの専門の(というか、専門ふうの)回答者が答える。質問もかなりユニークだが、回答もユニーク。しかし、けっこうこれが参考になる、という本になっている。
ちなみに、この本のもとになったサイトは次の通り。リアルタイムで経験したい人はこちらもどうぞ。
http://www.webdokusho.com/frame-soudan.html
2001/9/25
井上史雄(2001)『日本語は生き残れるか:経済言語学の視点から』PHP新書
「日本語は生き残れるか」というのは「日本語が消滅するかどうか」ということではなくて、「国際語として英語に負けずにやっていけるか?」と言い換えるといいかもしれない。筆者は、他の世界と同じように言語の世界でも一番でなければ衰退していく、あるいは一番がますます一人勝ちする、と論じる。例えば、多言語教育というが、その中には必ず英語が含まれる。となると、これまで以上に英語を学習する人、英語が使える人が増える、というからくりである。
その中で日本語は国際語として通用するのか。筆者は否定的である。まず、ことばとして表記方法(漢字の問題)、語彙が多いということ、等を挙げて学習しても上達に時間がかかる、とする。また、日本語を習得してどのくらいのお金を稼げるか、も見通しが暗い。
もちろん、日本語で大学教育まで受けられる点や母語を大事にしなくてはならない点などは協調しているのだが、その一方で、中期的には日本人同士が英語を使ってコミュニケーションをするようになる場面も出てくるだろうと予想している。
なお、この著者は下記の本も出版していて、こちらは方言の問題も扱っている。
井上史雄(2000)『日本語の値段』大修館書店
2001/9/18
野田昌宏(2000)『宇宙ロケットの世紀』NTT出版
的川泰宣(2000)『月をめざした二人の科学者:アポロとスプートニクの軌跡』中公新書
五代富文・中野不二男(2001)『ロケット開発「失敗の条件」:技術と組織の未来像』ベスト新書
野田(2000)の本は図書館にお願いして買った本で、ロケットの最初のから現在までの軌跡を主に米国のエピソードを中心にして、その他に旧ソ連や日本、フランスなどのロケット開発を紹介している。アポロ計画のいろいろな話もおもしろかったが、惑星探査の歴史や宇宙ステーションの構想などもおもしろい。全体として文章が読みやすい本である。
的川(2000)の題名で「二人の科学者」のうち、一人は第二次世界大戦下のドイツでV2号ロケットを開発し、戦後米国に渡ってアポロ計画を指揮したブラウンである。この人のことはこれまでよく書かれてきた。もう一人が旧ソ連の宇宙開発の中心となっていたコロリョフである。米国からはソビエトの妖術師と言われていた人物であるが、この人のことと旧ソ連の宇宙開発の歴史が詳細に書かれているのがこの本の特徴である。二人とも独創性とリーダーシップに秀でた人たちであったが、この本で分かるのは、以下に当時の政治に対して闘ったかということである。政治家は自分の利益になると思うとさんざんな要求を科学者に突きつけるが、関心がない部分になると全くの無関心となる。
政治家のこと、官僚のことについて、日本の場合を暴露しているのが五代・中野(2001)である。日本の宇宙開発は今後如何に進められるべきかについて、特に宇宙開発の失敗に対する考え方を話した対談を収録している。ロケットの打ち上げがうまくいかないときに、原因をきちんと追求しないままに、取りあえず謝罪し、官僚が予算を縮小しようと画策し、政治家が関係者を呼びつけて恫喝する、ということを繰り返していては、先は暗いだろう。 本来宇宙開発はチャレンジングであり、失敗を繰り返して、それを基礎にして進歩していく性質を持っている。ある意味で、失敗するチャンスを逃していては、進歩はないということになる。「今つぎ込んだお金が明日倍になって戻ってくる」という前提で話をしていてはいけないはずで、独自のロケット技術というのはその国にとって重要だと思うのだが。
2001/9/ 7
栗田勇(2001)『花を旅する』岩波新書
今年の春に出版された。すぐに買って、ぼちぼち読んでいたが、予想に反して面白かった。ここで言う「予想」というのは、一般的な花の解説書だと思ったため(どのあたりの風景が綺麗だとか、まあそういったこと)。ところが、この本では、月ごとに花を決めて、その花にまつわる習慣や人々のものの考え方を、日本の古典を引用しながら悠長に書いている。特に古典の中に出てくる花、という取り上げ方が面白く、代表的な古典をまた読み返そうとそちらまで買い込む羽目になった(そちらはまだ少ししか読んでいないが)。
取り上げている花は、4月の桜から始まって、藤、あやめ、百合、蓮、萩、菊、紅葉、花祭り、松、梅、椿。
何かの役に立つという事は全くないが、それだけに読みたい本だと思う。
2001/9/ 3
藤岡真(2001)『ゲッベルスの贈り物』創元推理文庫
本屋さんの文庫のコーナーで平積みにしてあったので買った。面白そうなミステリーはひとまず買っておくことにしている。
もともとは1993年に出版されてそれっきりになっていたものが、筆者の新しい本の評判が良かったので、遡って文庫化されたものらしい。
中味はミステリーなのでちょっと紹介できないが、水準以上の作品である。最後のどんでん返しが今ひとつ弱い気もするが、この程度なら許せる。途中の文章もなかなかよく練れていて読みやすかった。
2001/9/ 3
佐藤俊樹(2000)『不平等社会日本:さよなら総中流』中公新書
この本で著者がもとにしているデータは「社会階層と社会移動全国調査」(通称)SSM調査)というものである。日本人の社会階層がどれだけ開かれているか、または閉じているかということを調査するもので、つまり親の社会階層が子供にどれだけ受け継がれるか、ということを調査するものである。
これまで戦後日本は社会階層がない社会になった、と言われてきた。ところが、社会のシステムがここしばらく変化し、このような社会では必ずしもなくなっているのではないかということを著者は疑っている。
興味を引いたのは、「エリートの空洞化」「空虚なエリート」という概念。もう一つは「学歴のロンダリング」。実際は、日本には階級が生じているのではないか?教育の機会はどのように保証されなくてはならないか?等ということを考えさせられる。
2001/9/ 3
宮崎里司(2001)『外国人力士はなぜ日本語がうまいのか:あなたに役立つ「ことば習得」のコツ』明治書院
タイトルの通りの本である。
要するに外国人力士が相撲部屋に入門して日本語を習得する過程がイマージョンプログラムにそっくりである点を指摘している。もっとも外国人力士の生活など、たいへん興味深い内容を含んでいるので読んでいて楽しい。
ただ、「日本語がうまい」と言っても、うまくいった人たちに焦点を当てているわけで、うまくいかなかった人たちも一方でいるわけである。だいたい、相当若い年齢でまったく実績がなくて入門して、日本の習慣の中でどっぷり浸かって生活するわけだから、これで成功する人は、ことばがうまくならないということはあり得ない。そういう意味では予想される内容なのだが、文章もわかりやすいので、お薦めです。
2001/8/27
植木不等式「悲しきネクタイ」日経ビジネス人文庫
もちろん著者の名前はペンネーム。本のタイトルは『悲しき熱帯』の社用で借用。中味は現在の会社社会の風刺、批判。それに動物の世界のいろいろな特性を絡み合わせて会社の風習を滅茶苦茶(本当)に言っている。動物のことを持ち出しているのは、このエッセイがもともとは科学雑誌に掲載されたから、だと思う。ちなみにサブタイトルは「企業環境における会社員の生態学的および動物行動学的研究」というもの。
エッセイの中で出てくる、替え歌も、よくもまあこんなものを次々に考え出したものだと言うくらいによくできていて、いったいこの人は何を考えて会社勤めをしているのか不思議。単行本は1996年に発売されていたらしい。
最初のエッセイについている替え歌(p.19):
あれ元請けが 泣いている
あれ下請けも 泣き出した
会社で夜長を 泣き通す
ああおもしろい 虫の息
どれにしようかと思ったのだが、これからの季節に合うかなあと思って選んだ。不謹慎だっただろうか?
実はこの単行本の方は、数年前に東京のマクミランでViva!San Franciscoの打ち合わせをやった翌日に、上野駅の本屋で見たことがある。その時には、なにやらおもしろそうな本があるなあ、と思ったのだが、荷物が重くなるので買うのをあきらめた。やっぱり目に付いた本はその時に買っておかねば、楽しみが5年先まで先延ばしになる、という教訓だろうか。
2001/5/ 5
糸井重里(2001)『ほぼ日刊イトイ新聞の本』講談社
「ほぼ日刊イトイ新聞」はコピーライターの糸井重里が始めたホームページで現在超人気である。有名無名な人たちがコンテンツを寄せている。
「あの」糸井重里なので、さすがに文章は読みやすい。
なぜ、このようなホームページを企画したのか、途中でどんなことがあったのかをまとめた本である。
「クリエイティブ」がイニシアティブを持った「場」がほしいと考えた(p.302)。
確かに「未来はとっくにはじまっている」(そして、もう、かなり、かっこよくなっていると思う)。
2001/5/ 5
大友克洋(1982〜)『AKIRA』(全6巻)講談社
実際に読んだのは4月。前からこの作品は知っていたが、最近、日本漫画遺産振興委員会・G.B.(編)(2001)『21世紀に残す名作マンガ best100』(竹書房文庫)という本を買って、その中の第5位に入っていた。本屋でうろついていたら見つけたので取りあえず第1巻を買って読み出したらとまらなくなった、という次第である。
少年(と少女)たちを主人公にした近未来SFで、ストーリー構成の見事さと絵のすばらしさに感動してしまった。活字の世界だけでは表現出来ないメッセージは確かにある。
ところで、best100の第1位は「ドラえもん」、第2位は「あしたのジョー」でした。
2001/3/22
選書メチエ編集部(編)(2001)『学問はおもしろい:<知の人生>へどう出発したか』講談社選書メチエ
新年度が始まるということで企画された本だろう。
執筆者:鷲田清一、永井均、竹田青嗣、今村仁司、弓削達、大石慎三郎、川北稔、松田泰二、高山宏、井波律子、池内紀、田中貴子、千野栄一、佐々木毅、渡辺利夫、吉見俊哉、きたやまおさむ、荒井献、町田宗鳳、池田清彦、陣内秀信、池内了、石山修武
人文科学に厚く、社会科学と自然科学が少し寂しい。しかし、さすが講談社、執筆陣ひとりずつは豪華である。
ユニークな略歴とか書いている人もいるが、それぞれ学者として身を立てている人たちなので、一人前になるまでに勉強したプロセスはそれほど変わっているわけではない。どういう内容の勉強をやったか、という点は、学問分野ごとに違うけれども、地道にやったというその点では大きな差はないということか。当然といえば当然であるが。
2001/3/22
リービ英雄(2001)『日本語を書く部屋』岩波書店
リービ英雄は1950年生まれ。スタンフォード大学元教授。日本文学研究。ということになると、いわゆるジャパノロジストということになるのだが、「日本語で表現したい」ということで、スタンフォード大学の職を辞して日本に移り住んだ。すでに、日本語で小説などを発表。『星条旗の聞こえない部屋』で第14回野間文芸新人賞、1996年に『天安門』で芥川賞候補。もっともこの人の本を読んだのは、このエッセイ集が初めて。
「越境」ということがしばしば出てくる。彼は当初日本文学の専門家ということで、日本文学の翻訳を期待されたという。しかし、日本語を表現の手段として、自分で創作をすることにこだわり、東京をベースにして活動している。
自分の表現の手段というのは母語以外でしかない、というのは単なる思い込みである。だいたい書き言葉というのは自分の母語と同じものとは限らない。ものを書く、しかも、私的にではなく、世の中に向けて書くということは、意識的な活動である。いや、そんなことをいちいち言わなくても、文学の歴史の中では、自分の母語以外で書いた人は珍しいことではない。わたしの知っている例では英文学のConradがいる。大学2年生の時に英文学の教材として読んだが、当時の(今もか?)自分の英語力を差し引いて考えても、なかなか読みにくい英文だった。最近では、カズオイシグロが英語で作品を発表している。
だから、日本語を表現の手段としてもなんの不思議もないはずである。そういった日本語の表現を社会が当然のこととして受け入れて、「国際化」とかなんとかいう言葉も意味が出てくるのかもしれない。
==引用です(ここから)。
ぼくは「異文化の共存」という言葉が好きではない。ことに日本人がこの言葉を用いる場合、「おまえはおまえでオレはオレ」「おまえとオレとの間の一線を越えるな」というニュアンスを強く感じる。もちろんそうではない場合もあるが、、「外人は日本語をしゃべれない」「外人は日本文化を理解できない」という思い込みと、それはどこかで一脈通じている。(p.171)
「外人」を日本人とほぼ絶対的に分けようとする日本社会の構造は変わっていない。ほとんどの外国人は共同体の一員とは認められず、孤立した小さな共同体を作ることを余儀なくされている。だが、そんな「異文化の共存・共生」に意味があるのだろうか。外国に生まれながら、日本に来て、実質的には新しい日本人として生きている。少なくともボーダーを超えてくる前の自分とは違った、日本文化共有者となった者は少なからずいる。その事実は「異文化論」の大きな盲点であるように思えてならない。(p.172)
==引用です(ここまで)。