2000年8月30日作成

第3日目 どんな学生だったのか?


「出身大学は広島大学でしたよね?」
「そうです。」
「なんでまた、広島だったんですか?」
「別に広島の町とかに興味があったんではなくて、先生になるつもりでいたので、まあ、そうなってしまったわけですが、教育学部といえば昔の高等師範学校の伝統を持っている広島大学の教育学部かなあと思って。」
「広島大学って、移転しましたよね?」
「それは10年くらい前のことですね。現在は東広島市にあります。用事もあって、時々行くこともあるのですが、教室の雰囲気とかは前と共通の部分もありますけど、やっぱり、どうも自分の出身大学という印象が薄くなりました。仕方ないんでしょうけど。」

「で、どうでした?大学生活は?」
「楽しかったですよ。あまり悪い思い出はありません。授業とかクラスの仲間とか、それから広島の町とか、全部が懐かしいというところですね。やはり広島大学というのは当時からかなり大きい大学でしたから、学生ばかりではなくて、大学院生とか教員とか職員とか、それに関連する人たちがものすごい数いるわけですよ。しかも、理科系の学部とかも大きかったですから、そんなところでは24時間実験とかやっているわけでしょう。それが広島の中心街に近いところにキャンパスを構えていると、どうしても大学の周辺は大学街という感じで、わけの分からない食べ物屋さんとか、やたらと学術書がある小さい本屋さんとか、とにかく猥雑な感じの街が不夜城のようにそこにあるという雰囲気でした。」

「ちゃんとまじめに大学生をやってたんですか?」
「やってましたよ。受験勉強が嫌で、大学にさっさと入って、自分の好きな勉強をしたいと思っていましたから。」
「じゃあ、授業もきちんと出席していた?」
「ノーコメントにさせていただきます。」
「ほんとにまじめにやってたんですか?」
「いや、勉強はきちんとやっていましたけど、授業には好き嫌いが激しい学生だったというくらいで勘弁してください。」

「大学時代で印象に残る授業は何かありますか?」
「えっと、さっきの話なんですけど、授業をさぼっていたというか出席にムラがあったのは、一般教養科目(今の共通科目ですね)の授業です。広島大学っていうのは規模としては大きな大学ですから、授業科目も豊富で選択の幅もそうとうありましたから、自分の興味の全くない科目を仕方がないから履修するということはあまりなかったんですけど、まあ、それでも最初大学に入った頃は、適当にやってましたね。
 でも、当時でも、履修していた授業はどれもおもしろかったですね。「政治学」とか「日本国憲法」とか、「日本史」とか、「進化学」「生理学」、授業の様子を今でも思い出すことができます。「生理学」は植物生理学をやっていたんですが、倉石先生という方で、半期ごとに全く新しいテーマでどんどん授業の内容を変えてました。全然自分の専門とは違う分野でしたけど、話はおもしろいし、内容がすごく濃くて(もちろん先生の方は学生向けに、例えば化学式をできるだけ使わないとか、アレンジしていたはずですが)これはあまり休んだ記憶がありません。」

「専門課程ではどんなことを?」
「現在では違うシステムを採用しているようですが、当時は、広島大学の教育学部は、当時、教育学関係の科目は教育学部で開講していましたが、それぞれの科目の専門科目、例えば、英語だと英文学とか英語学の科目は文学部で開講していて、そこで文学部の学生と一緒に授業を受けていました。他の科目も同じです。理科系の科目は理学部で一緒にやっていました。」
「それじゃ、英文科の学生と全く同じ講義を受けていたわけですか?」
「そうです。2年生から授業が始まりましたが、文学部ではそれなりに体系だった講義をしているわけです。「文学とは何か?」とかね。最初はこれが取っつきにくくていやでしたね。まじめに聞くようになったのは、2年生の後期くらいからです。後はちゃんと勉強しましたけど。」

「印象に残る授業はありますか?」
「文句を言ったわりにはたくさんあるんですが、Makin先生の授業は全部印象深かったですね。2年生の後期にConradのAlmayer's Follyを読みました。だいたいConradという作家は英語の母語話者ではないんですが、英語そのものも読みにくく、登場人物の話す英語も滅茶苦茶で、おまけにその発音をそのまま表記しているので、いっそうわかりにくかったんですよ。でも、文学作品を一冊全部テキストを綿密に検討しながら読んだ、という経験ができたことと、この小説を越えて一般的に文学作品を読むとはどういうことか、ということが理解できたこと、こういった点では本当に印象に残る授業でした。Makin先生の授業ではこのあとArnold BennetteのAnna of the Five Towns、Scott FitzgeraldのThe Great Gatsbyを読みました。Bennetteは今ひとつぴんとこなかったのですが、The Great Gatsbyの方は感動しました。これは「偉大なるギャツビー」という題名で翻訳も出ています(新潮文庫)。ぜひ読んでみて下さい。」

「文学関係では他にどんな先生がいたんですか?」
「後に文学部長になった湯浅先生の授業も印象に残っています。湯浅先生は英詩と米詩、それぞれの授業、それと英作文の授業を受けました。
 詩というのは、最初は興味がそれほどなかったのですが、この先生の授業そのものがおもしろくて、ついでに勉強したという感じでした。湯浅先生は、英語が恐ろしく堪能でご自身でもペンギンブックスから松尾芭蕉についての本を出していらっしゃいますが、英作文の時間の切れ味は忘れられないですね。」

「けっこう、英文学に入れ込んでいたんじゃないですか?」
「好きであったことは確かです。今でも文学というものに興味はあります。ただ、自分の目標というかやりたいことは英語教育だという自覚はかなり強かったですから、「興味がある」というところでとまってしまいました。」
「文学と教育を結びつけるとか、そういうことは考えなかったのですか?」
「「文学を教育に利用する、」という考えになると思うのですが、これは人それぞれとはいうものの、独立した芸術作品について知れば知るほど、それの都合のいいところだけを取り出して何か別のことに、この場合には教育ですが、利用するというのは、ちょっと違うのではないかと...英語教育学の教材論の一部として「文学作品の利用」というテーマはあるのですが、それはあくまでも英語教育学のごく一部にすぎません。文学の方から教育を眺めると、文学を教えておけば英語教育などはなんとかなる、という考えも起こるのでしょうけど、それでは英語教育というのは何なのかということになります。」

「というわけで、文学部に出かけていって受講した授業について、話してもらっていたわけですが、教育学部での授業はどうだったのでしょうか?」
「教育学部では、教育全般に関わる授業と英語教育学に関する授業と両方合ったんですが、どちらもよく覚えています。教育原理とか教育心理学とか、教育方法論とか、それぞれの専門の先生に教えてもらいました。さすがに専門の授業だけあって、それぞれの先生方はその学問の構造から説明を始めるわけです。そのあたりがちょっと退屈でしたけどね。でも、同級生もみんな教員を目指しているわけで、目標が全く一緒ですから、先生の方もたぶんやりやすかったと思います。勉強する学生の方も、クラスの友達はみんな教員志望ですから、話がよく合いましたし、一緒に勉強することもよくありました。」

「英語教育学の授業はどんなことをやっていたんですか?」
「当時の教授は垣田直巳先生という方だったのですが、ご自分で編集したテキストを研究室で仮とじにしてそれを使っていました。授業のやり方はテキストをもとにして説明をするというもので、特別個性的なやり方だったわけではありません。ただ、英語教育学の核になるところを確実に押さえた授業だった思います。」

「他にはどんな授業がありましたか?」
「英語教育史」を当時の助教授の松村幹男先生がやっていました。歴史の授業でしたが、おもしろい内容でした。冬休みのレポートで「夏目漱石の英語教育観」をテーマにしてけっこう入れ込んで書きました。

「こうして話を聞いていると、まじめな学生みたいじゃないですか?」
「ですからあ、まじめだったんだって、最初で言ったでしょう?」
「最後になって訊くのもなんですが、カープの山本浩二の打率と、授業の出席率が競り合っていたとか?いう噂はどうなんですか?」
「そういう授業もたまにはあった、ということですよ。だいたい、言われた通りに授業にでて、それで単位が取れて、何も自分で考えないとか行動を起こさないとかいう学生生活を送っていて、何が楽しいんですか?」
「という、本音がでたところで、学生生活については次回(第4日目)に続きます。」

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