2000年9月1日作成
第7日目 なぜこんなことをしているのか?
「だいたい、その、なんで大学で教えることになったんですか?」
「大学で教えているのは、まあ、なりゆきですね。」
「もともとは何になりたかったんです?」
「第3日でお話ししたんですけど、先生になりたかったんですよ。高校くらいで教えられるといいかなあ、と思っていました。」
「それはどうしてです。」
「父親が中学校の先生でしたし、母親も結婚するまで先生をしていましたし、母方の祖父も先生でした。そういうことでは、教員一家で、それに田舎の方でしたから、職業として先生くらいしかイメージできなかったということもあります。」
「それはいつ頃のことですか?」
「中学校くらいまでですね。」
「でも、大学を選ぶときには、かなりはっきりした目的というか、自分の中で確信のようなものがあったわけでしょう?」
「ええ、教員以外には考えていませんでした。だから広島大学の教育学部に入学したわけですから。」
「具体的にはいつそのことを決めたんですか?」
「高校が進学校だったので、あまり教育学部というのは周囲では人気がなかったんですよ。法学部とか経済学部に行くのが当然みたいな雰囲気でした。で、どうしようかと思ったこともあるんですが、石川達三の『人間の壁』(新潮文庫)を読んで、これはやっぱり教員になろうと、再度自分の気持ちを確認するようなことをして、進路を決めたんです。
もともと、自分としては教育学とか教育行政論のようなことをやりたかったんですが、それをやっても大学院とかに行って研究者にならなければ、結局は高校の教員として就職することになります。それなら、最初から科目を決めて勉強しようと思いました。」
「普通は何か好きな科目があって、それを勉強しようと思って大学を選んでその結果として職業を選ぶときになってから教員という選択肢が浮かぶと思うんですが、最初に「教員」があったわけですね。」
「科目は何でも良かったんですよ。」
「では、なぜ英語の先生になろうと思ったんですか?」
「中学校の時に英語が好きで良くできた、ということがありますね。実は高校に入ってから全く英語の成績はぱっとしなくて、その時の先生達から見ると、私が英語を選んだのは意外だったようです。受験のための英語が肌に合わなくて勉強しなくなったのが原因だったんですが、これは、大学に入って勉強すれば何とかなる、と思っていました。
それで、英語を選んだ理由なんですが、高校の時の成績では国語とか日本史、世界史あたりがまずまずだったんですが、国語とか社会の教員になってしまうと、高校で文系のクラスしか担任を持てないのではないかと思ったんです。その点、英語だと文系が中心でしょうけど、理系のクラスを持てないわけではない。せっかく教員をやるのに、ある決まった生徒のめんどうしか見ることができないのは、ちょっと寂しいかなあ、と思って英語で教員をやることにしました。
同じ理屈で体育の先生というのも考えられるんですが、これは自分の体がそれほど良くなかったので、最初から選択肢に入れませんでした。ただ、父親は体育の先生でしたし、体が丈夫で、それなりの才能があったら、そうなっていた可能性はあります。」
「でも結局大学院へ進むわけですよね?」
「当時はまだ教育学部で博士課程後期まで本格的な大学院を持っていたのは広島大学くらいでした。大学院の先輩方とも交流がありましたし、せっかく、自分の入った大学がそのような環境があるのなら、ついでに入っておこうか、とまあ、これはそれほど深刻に考えずに入ってしまったわけです。」
「それであとはなりゆきで名古屋学院大学にいるというわけですね?」
「まあ、そういってしまえばみもふたもないんですが...
でも、大学で教えていると、高校のように教科書に縛られるわけでもないし、大学受験のための勉強をさせなくてはならないわけではないし、英語を教えることを含めて、自分で考えて自由に授業ができますね。それは自分にとって、よく合っていると思います。
だから、なりゆきとは言っても、自分にとってはほとんどベストの選択になっているのではないかと思うんですが。」
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