2002年 1月15日作成

第17日目 卒論とは何か?

「卒論が終わりましたね。」
「やっと終わりましたよ。」
「学生さんはたいへんだったでしょうね。」
「何を言ってるんですか。たいへんなのはこっちです。毎年ヒヤヒヤさせるのが何人もいるんですから。」
「そうなんですか?うーん、学生さんからは「あんなにたくさんものを書いたのは初めてだった、」という話しをよく聴きますけど。」
「だからですね、その「初めてものを書く」ような学生の面倒を見るわけですからたいへんなんですよ。」

「さっきから「たいへん、たいへん」と言ってますけど、何がそんなに大変なんですか。別に卒論といっても、そんなに大した論文を書くわけじゃないんでしょう?」
「「大した論文じゃない」と開き直られると、まあその通りなんですけど、それは我々論文とか文章を書くプロの側からの評価ですからね。初めての人というのはそう簡単には書けませんよ。」
「何が書けないんですか?」
「ふだんメールで友達に書くような文章ではなくて、きちんとした説明文を書かなくてはならないわけですよね。友達にメールを書く場合には、お互い知っていることとかを前提にして書きますから、ていねいに書く必要はありません。いわばふだんのおしゃべりをそのまま書けばいいわけです。それにそんなふうに、わかるところはどんどん省略して書いた方がおもしろいですから。」
「そうですね。」
「ところが説明文というのは、自分の言いたいことが不特定の相手に書き言葉だけで確実に伝わるようにしなければならないわけですから、勝手に自分の思いこみだけで書くわけにはいかないわけです。これには練習が必要ですから、最初からうまく書けるか、と言われても、まあ、書ける人もいるでしょうけど、難しいですよ。」

「へえ、そんなもんですか。」
「それに、それだけでは単なる説明文ですから、論文にするためには、その中に自分の主張がなくてはならないわけです。」
「そりゃ、そうですね。冷蔵庫の取扱説明書は論文にならないですわな。」
「でね、その自分の主張というのは、それだけいくら繰り返しても相手は聞いてくれませんし、それが正しいことなのかどうかもわかりませんよね。だから、論文を書くときの約束に従って、自分の論じたいテーマの意義を説明して、過去に同じ分野とか関連分野でいろいろ出版されていたらそれを調べて、自分で調査とか実験とかして、結論まで持ってくる、というプロセスを経るわけです。そうやって書かれたものが、論文として認められるんです。」
「うっ、めんどくさそう...」
「いや、まだその続きがあって、そうやって書かれた論文が初めて世間の人、この場合はその分野で研究をしている人たちですが、の評価の対象になるわけです。だから、その論文がいいとか悪いとか言うのは、さっきお話したようなやり方でちゃんと書いてあるものが出来上がってからのことになります。」
「学生さんの卒論でもそんなレベルまでいくもんなんですか?」
「まあ、初めて書いた文章ですからね。あまり期待はできませんよ。でもたまに「おっ」と思うのがありますけど。」

「卒論の指導って何をするんですか?」
「まず、テーマを決めさせるところから始まります。これも難儀なんですが。」
「何でもいいんでしょう?」
「「英語教育に関するもの」と言ってますけど、まあゼミのテーマがそうですからね、事実上は何でもいいですよ。だけど、学生が持ってくる論文のテーマというのは、漠然としていて、論文のタイトルとしては使えないものが多いですね。」
「そういうもんですか。」
「論文のテーマというのはふだんから頭に沸いてくるものではなくて、本や新聞、インターネットでもいいですが、情報収集から始まるわけですよ。もちろん、自分で最初から一つや二つの着想がある学生もいるんですが、それにしてもそのアイデアが使い物になるかどうかの検証も必要ですしね。」
「ほう。」
「だからそこでしつこく図書館などに行って関係のありそうな本を読みまくるという作業が入ります。」

「そこで、ゼミの時間に発表するんですよね。」
「そうです。自分が何を書きたいかをみんなの前で発表して、他の学生と質疑応答をします。それから、いろいろと必要な調査とか始めることになります。途中で何回か中間報告をしてもらってやるんですが、結局は最後の詰めで締め切りぎりぎりになりますね。」

「最後までしつこく学生の卒論を読んでらっしゃいましたけど、何をチェックしてるんですか?」
「いや、もう、論文の日本語そのものと論文としての体裁が整っているかですね。引用の仕方とか参考文献の載せ方とかですけど。日本語の方は、これはもう誤字脱字から論旨が通っているかとか、こんな主観的な表現をここで使ってはいけないとか、全部朱を入れて直させます。」
「楽しいですか?」
「「私たちのこんな卒論なんか読んでいてつまらないでしょう?」と言った学生がいましたけどね。別に自分が楽しむために卒論を書かせているわけじゃないんですから。教育活動の一環で、教員としての仕事の一つだと思ってますよ。」
「「書きたくなああああい。」と泣いてる学生もだいぶいるようですが?」
「だから書かせるわけですね。ほっておくと何もしないから。」
「なるほど。」

「ものを書く、それも人に説明する文章を的確に書ける、というのはものすごく大切な技能なんですよ。それと物事を論理的に考える能力というのも絶対に必要なんですね。めんどくさいと言っていたら絶対に身に付きません。だから学校でやらせるんです。」
「そうですよ。どこでもそれらしく話ができる人っていますよね。」
「「口だけうまくても中味がないと何にもならない」とか言う人もいて、それはそうかもしれないんですけどね、それでも言葉というのは武器ですからね、いざというときのために武器は準備しておかなくてはならないんですよ。」
「口がうるさくなると、人から嫌われませんか?」
「本当に言葉が上手な人は、ふだんは口うるさくないですよ。ミサイルを持っているからって毎日相手の国に打ち込んでいたら大変ですからね。本当にいざというときのためです。」
「そりゃそうですね。」

「だいたい、ことあるごとにどうでもいいことを騒ぎ立てる人は、たいしたことを言う分けじゃないですよ。国境あたりで小競り合いをする、というというか、それが仕事みたいになっていて、時々鉄砲でも撃ってないと仕事がないわけですね。
 ただ「口うるさい」ということと「言葉が達者」っていうのは別ですから。口うるさくしなくてもわかってもらえるのが本当に「言葉が達者」な人です。」

「ただ、一方で「口ばかりいくら上手でも、肝心の中味がないと...」というのも確かによく聞くフレーズですよね。」
「掃いて捨てるほどいろいろなところで聞かれますね。だいたいそういうことをぐずぐず言う奴ほど中味が空っぽということがあります。
 でも、自分の書評のページにも書きましたけど、何か言いたいことがないと(それも意味のあることとか有意義なこと)言葉だけできても仕方がないじゃん!と言う人がいるんですけど、それって「泥棒が来てから、泥棒を捕まえるための縄をなう」という「どろなわ」ということですよね。だからまだ何も言いたいことがない!というのは、逆に言うと一番のチャンスであるわけです。もちろん言いたいことがあって、どうしてもやらなくてはならない、と言うときに一番よく覚えられる、という意見もあります。」
「「背水の陣」というわけですね。」
「それもそうだと思いますが、「背水の陣」というのは失敗すれば溺れてしまうわけですから、できればそんなことになる前になんとかしておきたいですけどね。」

「子供時代、か、まあ、もっと広く意味を取って学校時代でもいいですが、毎日がお稽古、という時代だと思うんですよ。勉強に限らずすべてのことがお稽古でしょう。だから、一生懸命にいろいろなことをやってみなくちゃいけないんじゃないかと思います。やらずにそのままになってしまっていると、次にやるのは大人になってぶっつけ本番ということですよね。うまくいくこともあるんですけど、失敗したときに取り返しがつきませんから。」
「だから卒論もやらなくちゃいけないと?」
「学生は一字一句まで何度でも直されるのが初めてでしょうけど、これは人生の本番の時にはやってもらえません。自分でやらなくてはならないわけです。その時に、そういう練習をしていなければ途方にくれるか、何も知らずに恥ずかしい思いをするか、分けがわからずに失敗するか、のどれかです。だから、そう、例えば卒論というのは大事なんですよ。」
「ま、取りあえず卒論お疲れさまでした。」
「それは、私に対してですよね?ね?」

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