TOP>NGU EXPO2005研究>第3号(目次)>巻頭言 |
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巻頭言:EXPO2005開催地に必要なもの | ||||||
プロジェクト研究代表:小林 甲一(名古屋学院大学経済学部) | ||||||
依然、EXPO2005開催の姿や内容がはっきりと見えてこない。われわれのプロジェクト研究が活動を開始して約3年の歳月が経ったが、それを取りまく現実的状況は、まさに「3歩進んで、2歩さがる」といったところだろうか。2000年度においては、「愛知万博検討会議」で内容のある議論が展開され、それをテコにBIEでEXPO2005が正式に登録承認された。最近では、最高顧問に就任した堺屋 太一氏による博覧会コンセプトや会場計画の練り直しもまた大きな注目を集めている。そのイメージは広がり、その具体像が見え隠れするが、しかし、具体的なプランはまだ見えてこない。今後、具体的な実施計画が公表されるが、それでも、それらが明確になるにはまだかなりの時間が必要であろう。 われわれが開催したシンポジウムでも指摘されたが、そうは言っても、もうすでに「何年も前から、EXPO2005は始まっている」と考えるべきであろう。どんな博覧会になろうと、これほどの時間と人間の力を注ぐ大規模プロジェクトは、とりわけそれを開催する地域にとって1つの壮大な「叙事詩」に相当するものであり、そのストーリーは、それにかかわる人間や社会が織りなすさまざまな展開のなかで、いつしか始まっていたのである。 EXPO2005がどこで開催されるのか?博覧会にとって本来もっとも大切なのは、その理念やテーマであり、それを具体化した会場コンセプトであるはずだが、EXPO2005開催をめぐる動きは、この問題を焦点に進んできた。もちろん、こうした展開には必ずその理念や会場構想がかかわってきたのも事実である。しかし、われわれは、「どこで開催されるか」にあまりに振り回されすぎたのではないだろうか。 地域にとって国際博覧会の開催とは何かを考えると、こうした問題はいっそう深刻である。「地域からの視点」に立てば、このあたりで原点に立ち返り、「EXPO2005開催地になれるのか」ではなく「開催地になるために必要なものは何なのか」という問題意識をもって、EXPO2005への取り組み方やまちづくりの構想をもう一度見直す必要があるだろう。 ハノーバー博の失敗と成功を見れば明らかなように、21世紀の博覧会にとって、会場におけるコンセプトの具現化が重要であるのと同時に、あるいはそれ以上に会場外への発信や拡がりがポイントとなるにちがいない。これに応えることのできる地域がEXPO2005開催地となれるのである。そして、それに必要なものは、一言で言えば「地域の知恵」であろう。地域の次代を担う人材が、そうした知恵を発揮することができるか。EXPO2005の具体化が始まろうとする今、これからが、地域による本当の「知恵くらべ」がいよいよスタートすると考えるべきではないだろうか。 |
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TOP>NGU EXPO2005研究>第3号(目次)>T.愛知万博検討会議の顛末 |
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T.愛知万博検討会議の顛末 ― 会場問題から新しい万博を考える ― |
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名古屋学院大学長 木村 光伸 | ||||||
1.新住計画の破綻と会場問題 1999年11月に日本を訪問したBIEの代表団は、通産省(当時)との協議の場で、海上地区の計画に対して重大な疑念を表明し、とりわけ「跡地利用」としての新住計画の全面的な見直しを要請していた。この事実は、2000年1月14日になって中日新聞の紙面で大きく報道され、愛知万博の会場問題は、ふたたび大きな方向転換を余儀なくされた。1999年6月のオオタカ騒動以来の混乱は、ここに至って、海上の森における博覧会のあり方そのものの再考を促す大きな潮流となり、それが、後の「愛知万博検討会議」を生み出すこととなる。 そもそも、新住計画を背景にした先行的な土地取得と造成を愛知万博主会場の整備の前提あるいは経費軽減策とするという発想自体が、開発未来志向型万博であった当初プランの遺物であることは事業者も行政当局も承知のことであり、「環境重視」と「市民参加」を標榜する新しい博覧会を企図するにあたっては排除すべきものであるという基本姿勢が醸成されていなかったところに悲劇のすべての原因があったのである。BIEの指摘を受けてなお、国は、新住事業なしに愛知万博海上会場を構築することは現実的でないとし、BIEによる2000年6月の登録を延期するように求められるに至ったのである。その時点で、もはや新住計画を多少改変するとか、縮小させるとかの議論ではなく、広域的な地域整備事業に関わる全体手法が、国際博覧会とは整合しないということが明白であった。会場造成費用の捻出などという理屈は、単に国内問題でしかなく、BIEを説得する材料とはなりえず、むしろこの問題を契機に国内環境諸団体との連携を深め、国際的な環境機関と国の間で最高度のレベルでの理解が不可欠となったのである。 この間の議論で自然の保全と博覧会の開催を整合させるための努力がおこなわれた。その中心は、いわゆる中央3団体(日本自然保護協会 NACS-J、日本野鳥の会、世界自然保護基金日本委員会 WWFJ)であったが、その基本姿勢と、博覧会そのものを否定し、海上の森の全面的な保全を主張する地元の自然保護諸団体との間には相当の隔たりがあったといわねばならない。中央3団体と愛知県知事、通産大臣との協議を経て、2000年4月4日には、深谷通産大臣、神田知事と豊田章一郎国際博覧会協会会長の3者会談が成立し、新住宅市街地開発事業とそれに伴う新規道路建設は撤回され、将来的な地域整備については地元関係者、自然保護団体などの意見を幅広く聞きながら検討を進めることとなった。博覧会招致の当初から問題を抱えてきた新住計画はここでピリオドを打った。これを受けたかたちで、4月28日には上記3者と3団体による合意文書(いわゆる6者合意)が公表され、愛知万博のBIEへの12月登録をめざして、懸案事項の合意形成を図る機関としての「愛知万博検討会議」の設置が決定された。 2.検討会議の成立と基本的な性格 6者合意を主導したのは明らかに環境3団体であったが、その影響は愛知万博検討会議の最後まで持続し、検討会議の後継会議体にも引き継がれたといってよい。最終的な調整を経て、検討会議は博覧会協会に設置され、28名の委員が委嘱された。その内訳は自然保護団体9名(中央3団体3名、地元自然保護団体6名)、地元関係者9名(瀬戸市3名、長久手町2名、推進団体4名)、有識者6名、博覧会協会企画運営委員4名である。こうした構成と委員の資格および性格づけが、後にさまざまな問題を引き起こすのであるが、当初よりこれら委員の位置づけをめぐっては理解と思惑が錯綜していたのである。この会議体は、正式には「愛知万博検討会議(海上地区を中心として)」と呼称された。これもまた、会議の性格および責任範囲を確定するにあたって議論と混乱を引き起こす一因となったのである。 確かに、6者合意では海上地区の計画の全面的な見直し(南地区への展開)が主要な協議事項であり、同時に円滑にBIE登録を目指すことが打ち出されていたが、現実の委員構成を見ると、博覧会の開催そのものに基本的に反対する委員や保全をめぐる多様な意見を対立的にもつ委員たち、いわゆる推進団体の委員たち、地元の期待と不安を表明する委員たち、そして多彩な学識的意見を開陳する有識者といった具合で、当初の議論は十分にかみ合うことなく進行していったのである。 3.会場計画案の合意 5月28日の開催された第1回会議で、この会議の性格が方向づけられたといえる。それは、委員長が立候補と選挙という形式で決定されたということによるところが大きいが、何よりもまず、市民合意という新しい形式の意思形成が模索されたことを評価しなければならない。文句をいい、批判することによって行政や事業者との関係を対立的に形成したり、事業者の決定に対する応援者として行動する市民ではなく、自らが意思の形成に参画し、行動するという新しい市民活動の場として、検討会議が機能したということである。もちろん、それは最初から軌道に乗った動きであったわけではなく、委員のぶつかり合いの中で形成されてきたものであり、回を重ねるにつれていわゆる推進派と保護派の対立は徐々にではあるがその形を変え、事業者と市民という新しい軸で関係を捉え始めていたのである。 各委員の主張が一巡したところで、会議は会議体としてのまとめに入る。これは極めて限られた時間の制約のなかで議論を進め、合意形成を図るという最初から無茶な時間設定に拘束されたやむを得ない進行ではあった。しかし、それが合意事項の相互理解という点で問題を後に残す結果となったのは、その後の会場計画づくりにとっては少なからぬ障害として、今もなお、プロジェクト全体をギクシャクさせている。 7月28日の検討会議合意案にはいくつもの問題点が内包されている。おそらく各委員の意見を聞けばその問題の所在さえも異なった視点で捉えられているのであろうし、その意味からは合意そのものが同床異夢であったということなのかもしれない。ここでは、瀬戸地区の視点から若干の反省を試みるに止めておきたい。 (1)会場をめぐって そもそも、6者合意の時点で、海上の会場は「海上の森の南地区」に限定された。これは、新住計画と会場問題がつねに一体であったということを如実に物語っている。海上の森を保全する視点から見れば、南地区は大いに保全を要する地域であり、むしろ海上集落を中心にした当初計画の方が自然に与えるダメージはずっと少ない。にもかかわらず、南地区に限定した議論しかあらかじめ設定されないような会議となったのは「新住なくして会場造成なし」とした従前の思考形式の残渣でしかない。 もともとそのように制限的である南地区で適地探しをすれば、おのずと会場は縮小し、限定的にならざるを得ない。最終的に候補地として承認されたのは西地区のわずかな面積にすぎず、それさえも開発の妥当性をめぐる議論には果てしがない。したがって、瀬戸市民から見ればもはや瀬戸には会場といえるものはほとんどなく、検討会議の議論さえも他人の論理のように聞こえたに違いないのである。海上地区の会場はすでに博覧会のシンボルに過ぎないかのように見える。 (2)議論の主題としての青少年公園地区 オオタカ問題以来、主会場として定着した青少年公園の計画について、検討会議は議論を集約させることがなかった。もちろん、会議のタイトルが示すように、検討会議に課せられた使命は海上地区の使い方であり、保全の考え方であって、愛知万博の計画全体ではありえない。しかし、海上地区のあり方は、青少年公園の計画そのものと不可分にリンクしているのであって、関係ないというわけにもいかない。そのあたりの曖昧さが、議論を出発点で固着させて建設的な提案には着手できなかった。さらにいえば、海上地区の問題として選定された検討会議の委員には青少年公園問題を討議するだけの力量はなかったというべきであろう。 (3)開催手法の議論 検討会議の当初、各委員から博覧会開催と会場の問題に関して極めて多様な考え方が紹介された。しかし、その大半は時間的な制約のなかで放置され、検討会議案のなかで羅列的に紹介されるに止まった。それぞれの意見を事業者による計画のなかや地域連携、市民参加の舞台で活用することも、また残された課題の1つであろう。それらは、検討会議の後継会議体として後述する議論のなかで煮詰めていくべき問題でもある。 検討会議は、その後も引き続き議論を重ね、12月21日の第13回会議をもって解散した。解散の前提として検討会議は4つの後継会議体を残すこととなり、2000年度末から順次立ち上げられ活動を始めることとなった。それらは以下のとおりである。 (a) 海上地区の会場計画のモニタリング (b) 検討会議提案のフォローアップ (c) 海上地区の長期的な保全活用 (d) 市民万博としての推進 これらのなかで海上地区を対象とした「里山学びと交流の森検討会」が準備会として直ちに発足し、活動を開始した。フォローアップ会議も、その後の計画策定の推移のなかで発足した。モニタリング会議は、海上の計画案の遅れから発足に手間取った。市民参加の会議体は、その構成や形式をめぐって議論が前進しない状況が続いた。しかし、それらが検討会議の「協働の精神」を持続するかぎり、その歩みは遅くとも「よりよい万博」と「合理的な地域整備」のための議論の場として機能しつづけるであろう。否、そうでなければ検討会議が提起した21世紀型意思形成の手法は、新しい社会を形成するものとして機能しないのである。 4.検討会議の成果と万博の行く末 愛知万博検討会議の意義を簡単に整理することは困難であると同時に危険でさえある。円卓による協働という市民参加の新しい潮流は、間違いなく新世紀に相応しいものであるが、その手法が行政にとって代わるものではないことは明白であろう。とくに、愛知万博において事業者の責任は重い。市民の意見をどう集約することが必要か、また可能かをつねに模索しながら、事業者はその責任を果たさねばならない。 市民もまた主体的参加と事業者に対する対決的対応とを峻別し、柔軟に行動することが求められる。そのような活動を持続させることこそ、これからの市民に課せられた課題である。あらゆる可能性を排除せず、1つ1つ対立の根をほぐす努力を惜しんではなるまい。その成果が、必ずや2005年に現れる。 愛知万博は、「地域の知恵」を試す試験問題として重要な意味をもち、これからも市民に課題を突きつけることであろう。 最後に、検討会議以降に起こった「堺屋問題」については論評を避けることをもって筆者の意思表示としたい。 |
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TOP>NGU EXPO2005研究>第3号(目次)>U.EXPO2000とハノーバーの知恵 |
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U.EXPO2000とハノーバーの知恵 (シンポジウム「EXPO2005:地域の知恵 ―ハノーバー博をこえて ―」基調講演) |
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プロジェクト研究代表 小林 甲一 | ||||||
皆さん、こんにちは。名古屋学院大学経済学部長の小林と申します。 私ども、昨年6月から10月までハノーバーで博覧会が開かれている期間中、わずか3泊4日程度の滞在だったわけですが、視察をしてきました。先ほど少しお話がありましたように、少し違った視点で、つまり博覧会の会場内の様子だけではなく、開催地ハノーバーがどういうかたちで博覧会を迎えているのかというような視点から全体を眺めてみようと思って出かけていったわけです。 それはなぜかと申しますと、私ども、先ほどのお話にもありましたように、数年前から今の愛知万博の動きを「地域の視点」からみてみましょうということで、ずっと調査研究活動を続けてきたものですから、同じ視点でハノーバー博をみた場合、どうなるのかといったところを問題意識として強くもって今回の視察に臨みました。たまたま、私は、数年前に、ドイツに1年間留学しておりまして、多少ドイツに関する知識があるものですから、そういったものも踏まえたうえで、ハノーバーはいかにEXPO2000を迎えたのか、どういうかたちで取り組んできたのかというところを調査したわけです。 レジュメ(U章末を参照)に沿ってお話を進めてまいりたいと思います。まず最初に「ハノーバー博のめざしたもの」ということで掲げておりますが、やはりハノーバー博ということを考えた場合、もちろんEXPO2000という博覧会にかかわるものと、先ほどから言っていますように、その開催地であるハノーバーが、この博覧会に向けてどういう取り組みをしたのかという、この2つのことが大きな内容になると思います。 まず第一に、EXPO2000は、そこに書いてありますように、「人間、自然、技術 ― 新たな世界の幕開け」というテーマで。おそらくハノーバーで開催される博覧会ということはよくご存じでも、このテーマについて一般の方はあまりご存じないと思うんですが、実際、そういうかなり総花的なテーマで開催されたわけです。 私の印象ですけれども、当たり前のことですが、非常に「ドイツ的」であったというふうに思います。「人間、自然、技術」とは言いますが、そこで展開されたテーマ館の構成でありますとか、内容を見てみますと、きわめてドイツ的であるという印象を強く受けました。たとえば「労働」とか「基本的必要」など、ドイツ人の好きな言葉がたくさん散りばめてありまして、おそらくドイツ語がわかったとしても外国人には理解しにくい内容であったと。当たり前のようですけれども、そんな感じがいたしました。 それから、ご承知のようにハノーバー博も当初の予定から比べますと、かなり環境といいますか、エコロジー重視へと進んでいきました。ドイツと日本と少し違うところは、ドイツというのは、緑の党で非常に有名な環境保護運動が一時期とても大きな力を持ちまして、ちょうどハノーバー博の準備を始めたころ、その運動が1つの停滞期に入ったころでございまして、今回こういうかたちになったわけですけれども、そういうエコロジーを重視してテーマ館が設定されていたのは当たり前ですし、それから各国館のコンセプトもほとんどがエコロジーとか環境重視というかたちでできていたと思います。 それからもう1つは、20世紀から21世紀へ、欧米と日本とでは世紀の変わり目のとらえ方がどうも違うようですけれども、あくまでも20世紀的であったんだなということは、博覧会会場の全体的な雰囲気から私の感じたところでございます。後からもお話ししますように、メッセ会場、国際見本市の会場を転用していたわけでして、まさに見本市らしい博覧会でありまして、それも20世紀後半、日本もありますけれども、各国で展開されたようなテーマパーク、あるいは日本でもいろいろ見られました博覧会の形式とほとんど似たようなかたちで展開をされていたという印象を受けました。 正直言いまして、私どもの問題意識からしますと、EXPO2000の会場のなかでどんなことが、というよりも、むしろ開催地であるハノーバーがどういうことを考えていたのか、どういう取り組みをしたのかということが重要であったわけですけれども、そうしたところから見ますと、そこにも書いておりますように、ハノーバーがめざしたものというのは非常にはっきりしておりまして、ドイツ及びEUにおける都市間競争のなかで生き残っていくと。しかも、ハノーバーはドイツ統一、それからEUの東への拡大というなかで、非常に地理的に有利な条件に立っていまして、ちょうど真ん中にあるわけです。そういったところから、これからの21世紀、ヨーロッパのなかで、あるいはドイツのなかで、非常に大きなその地理的メリットを生かしていこうというような考え方が明らかにあったんだろうと思います。 日本の場合、あまり都市間競争という意識がないわけですけれども、中央集権的なところもありまして、最近、地域の時代とかいろいろ言われましても、なかなか地方都市の、あるいは中核都市のそういった個性が出てきません。しかし、ヨーロッパの場合は歴史も証明していますように、ちょっと油断しますと都市が衰退をしていく。逆に急速に成長する都市もある。いろいろな要因が働くわけですけれども、そういう都市間競争のなかで、大いなる飛躍をめざすというようなところがハノーバーの意図としてあったんだと思います。それが、実に、はっきりとしていたのではないでしょうか。 ハノーバーの場合、都市と言いましても、それがめざしたのは、国際見本市、メッセ都市としてということでございます。ドイツでは、もともとフランクフルトが非常に有名なメッセ都市でして、戦前から発展をしてきたわけですけれども、戦後、ハノーバーが急速にメッセ都市として発展をしました。ハノーバーは人口54万人ほどでして、フォルクスワーゲンが近くにある、どちらかと言いますとビジネス産業都市なわけです。ほかに大きなメリットもなかったのだと思いますが、メッセ都市として、戦後のドイツで比較的早くから注目され、発展してきました。それをさらに発展させようというようなところがはハノーバーにあったのだと思います。 第3に、ハノーバー博の成功と失敗、私も帰ってきてすぐ、中日新聞に少し思い切ったレポートを書いたのですが、ハノーバー博というのは、博覧会としてはおそらく失敗したと言っていい、私はそういうふうに見ております。今日は、先ほどご紹介ありましたように、日本館で広報部長として活躍されていた長谷川さんが来られています。日本館は成功したと思います。比較的多くの来場者がありましたし、私どもが外国人として博覧会に行ったときに、日本館に入ったときの非常にほっとした気持ちとか、そこで見学しているヨーロッパ人の表情を見ていますと、非常にいいなという感じがあったんですけれども、おそらくいわゆる博覧会としては、失敗した。あまり成功しなかったと思います。 しかし、それと比べて、逆にハノーバーがめざしたものというのは、非常に大きな成功をおさめたと言い切っていいんじゃないかと思います。そう言い切れるのも、先ほどから言っておりますように、「地域の視点」、あるいは「地域からの視点」に立って見ていくと、そういう結論になるのではないかと思います。 では、EXPO2005はどうなのか。そして、この瀬戸、それから長久手、名古屋、その開催地としてこれから取り組んでいくときにどのようなことが問題になってくるのか。そういった問題意識を持ちながら、少し私なりに資料を整理し、またいろいろ調査した結果、ハノーバー博の全体像は3つのもので構成されていたというふうにとらえるべきだろうと思います。 まず1つは、EXPO2000の主催者も明確にしております「EXPO2000の4つの柱」というのがございます。1ページ目の一番下に書いてございますけれども、まず私どもが一番当たり前に思う博覧会、その会場における世界各国、それから各団体が出展したパビリオンというものがございます。これがなければ博覧会ではないわけでして、これが1つあります。また、博覧会の開催に関連した文化、記念事業、各種のイベントとかプログラムといったものがあると思います。 それから3つめがテーマパークです。これは、私も博覧会の歴史についてそれほど詳しく把握しているわけではないですが、これまでの博覧会に比べますと、会場におけるそのウエートはかなり大きなテーマパークだったと思います。ドイツ人というのは、比較的、理念が好きで、テーマというのにやたらとこだわるわけでして、そういう意味ではテーマパークの大きさといいますか、重厚さというのは、そのあたりもドイツらしいところだと思うんですけれども、そういう印象もありました。そして、そのテーマパークが、要するに会場のなかで博覧会のテーマを提示するという役割を果たしたわけです。 そして最後にもう1つ、ワールドワイド・プロジェクトというのがあります。私も注目しましたし、また最近、日本でも幾つか注目されていますワールドワイド・プロジェクト。会場の外で博覧会のテーマを持続的に、ポスト万博ということになると思うんですけれども、実践するという意味を込めて、ワールドワイド・プロジェクトというのが4つ目の柱として組み込まれていたということです。ここのところが重要ではないかな、と私は思っております。博覧会というのは、さっきも言いましたように、どうしても1つめと3つめのところにウエートがあって、あと適当に2つめをやっていればそれでいいんだという雰囲気がありますが、ハノーバーはそうではなかったというわけです。ワールドワイド・プロジェクトに関しましては、また後から詳しくお話しをしたいと思います。 今までのお話がEXPO2000の内容だったわけですけれども、次に2のところに「ハノーバー・プログラム2001」というのがございます。これはハノーバー市が、ニーダーザクセン州の州都なわけですけれども、ハノーバー市が博覧会を契機に策定し、実行した地域計画と申しますか、地域政策のプランだったわけです。「2001」というところに意味がありまして、ハノーバー市の担当者のお話ですと、「EXPO2000だから2001なんだ」ということです。要するに、博覧会終了後、つまりポスト万博の問題意識をもって地域計画を策定したということです。「ハノーバー・プログラム2001」は、1995年に策定され、その後、展開されたきました。 なかに盛り込まれているのは、1つが域内交通基盤の整備です。日本でも各種報道されていますように、今、われわれが計画しています会場へのアクセスと比べますとはるかに便利な交通基盤が整備されていますが、そういうもの。それから、メッセ会場のリニューアル。先ほどから言っていますように、メッセ都市としてさらに飛躍をするということで、これを機にメッセ会場をリニューアルして、そしてまた隣接したところに大きな施設をつくりまして、そのなかで博覧会を開催し、その後はビジネスセンターとして再利用していくというようなことです。 それから環境重視型の住宅地開発、中心市街地や商工業地の活性化のためのさまざまな整備、そして都市景観。ドイツの都市というのは大体きれいな町が多いですけれども、ハノーバーは、特に緑のなかの都市として非常に有名でして、そういう都市景観にさらに磨きをかけて、観光地を整備するということをやっていたようです。 また、ある報告書によりますと、その事業というのは大小107あって、投資総額約2,200億円と、これはもちろん国や民間企業の関連投資は除いているわけですけれども、かなり大きな投資がおこなわれたわけです。 それだけではありませんでして、もう1つ、今EXPO2005でも準備されていますように、博覧会の開催を起爆剤としたさまざまな社会資本関連の整備がおこなわれました。ドイツでは、ミュンヘンオリンピック以来というふうに言われていましたが、交通インフラの整備、空港、鉄道網、ちょうどドイツの鉄道は民営化された後で、非常に勢いがありまして、鉄道網の整備でありますとか、ターミナル駅の整備、それからドイツの有名な高速道路でありますアウトバーンの整備、そうしたものがハノーバーの周辺地域に集中的におこなわれたわけです。 それから、先ほど紹介いたしましたメッセ会場に隣接したかたちで、ビジネスセンターを開発するという事業が跡地利用として計画されています。もともとあったメッセ会場はそれとして利用しまして、その隣にある大きな土地を博覧会期間中は会場として利用し、そしてその後はビジネスセンターとして切り売りして、メッセ会場に隣接したビジネスセンターを開発するということです。 こういうふうにハノーバー博の全体像を見ていきますと、もちろん博覧会会場のなかの動きというのは、非常に重要なわけですけれども、それ以上に会場の外の地域の変化というのは非常に大きかったということだと思います。ハノーバーの駅に着いて一番最初にびっくりしたのは、駅のすばらしさといいますか、日本で言えば当たり前のような施設、便利さが、私が長期滞在した数年前では考えられないようなかたちで、おそらくドイツでもあれほど便利な駅というのは初めてだと思うんですけれども、非常に便利な駅がつくられていたり、あるいは域内交通網の幹線であります環状鉄道があるんですが、そういう鉄道の便利さ、もちろん博覧会終了後、今その便利さがすべて保証されるのかどうか、まだわかりませんが、やはりインフラ整備として非常に大きな所産があったと考えられます。 次に、市民参加とワールドワイド・プロジェクトということで、今、われわれが取り組んでいるEXPO2005でも、この市民参加というのが非常に重要なキーワードになっています。われわれも、ハノーバーで市民参加がどういうふうにおこなわれているのか、とても大きな関心がありました。ご承知のように、ハノーバー博の開催も賛成51対反対49でやっと決まったといいますか、そういうかたちで始まったわけでして、今の私どもの状況以上に、博覧会の開催を市民にどのように理解してもらうか、あるいは参加してもらうかというところが大きなテーマであり、課題であったと考えられます。。 そういう視点で、時間は限られていたわけですが、実は最初のうち一生懸命に、どういう市民参加があるかを探して見て回りました。しかし、あまりよくわからなかったというのが正直なところなんですね。いろいろ考えながら見て回るうちに、少し見えてきた部分があったことも確かですが。 私たち、市民参加というか、博覧会に対する市民参加について考えますと、今、日本でいろいろと博覧会の準備をされている方々のお話を聞いても、どうも何か会場で市民の方がボランティアとして活動をしているとか、あるいは開催地に行けば駅や中心市街地に多くの市民の方が集まって、博覧会に関連した、あるいはそれとはまったく関係ない、いろいろなイベントをやっているというようなイメージでとらえがちです。あるいは、それだけが博覧会に対する市民参加であると考えてしまうかもしれません。たとえば、お金が足りないから、ボランンティアという市民の無償労働を利用して運営しようという思惑もあるのかもしれませんが、そんなことばかりを考えてしまう。ですが、少なくもハノーバー博に関しては、そんな感じではなかった。あるいは、どうもそういうイメージではなかったと言った方がよいのかもしれません。でも開催地に市民がいるかぎり「市民参加」がまったくないと考えるのは無意味ですから、そういうものだけが、市民参加ではないんだろうと考えるようにしました。 そうこう考えながら、ハノーバーの街をいろいろ歩いて、エキスポカフェに立ち寄りました。ヨーロッパの人びとはみんなカフェが好きで、そこでコーヒーを飲んでいたときに、非常に自然なホスピタリティというのを感じたわけです。お祭り騒ぎではないと申しますか、あまり肩を張っていないといいますか、万博のホストシティとしてのものではなく、ハノーバーの市民は意外に自然なかたちで来場者を受け入れているようなところが感じられたわけです。もし日本でやれば、おそらくそうではないだろうという感じが私にあったものですから、逆にそういったことを強く感じのかもしれません。 それからもう1つ、日本と比べますと、ドイツは、社会の各方面で市民参加がずいぶん進んでいるわけでして、そういう意味では、そのとき限りの、あるいは何か意識したような市民参加ではなくて、地に足のついた市民参加というのがあったのではないかというふうに考えるのが自然のように思います。ドイツ人の方に少しお話を聞いても、博覧会についてどう思うとか、あるいは、あなたはどういうかたちで博覧会に参加しているといった調子で、ヒアリングをしましたが、お話を聞いても、あまり「やってる、やってる」という感じではないんですね。何となくかかわっていっているというような、そういう受けとめ方がされていて、そんなところに「地に足のついた市民参加」というような印象が強く残ったのでしょう。 もう1つ市民参加を考えたときに重要なのは、ワールドワイド・プロジェクトではないかと思います。今回の調査でニーダーザクセン州経済研究所を訪問して、ハノーバー博の開催効果を研究している主任研究員の方にヒアリングする機会があったのですが、そのときも「市民参加」について質問しました。すると、彼が、「だったらワールドワイド・プロジェクトだろう」と教えてくれました。実は、私たちも不勉強で、研究所でその話を聞くまで全く知らなかったんです。ワールドワイド・プロジェクトというのは、一体どういうものなんだろうと、すごく気になりました。 日本でも、最近、少しずつ紹介され始めましたが、ワールドワイド・プロジェクトというのは、正式に、5つの目的を持って構想をされたということになっています。ドイツ語をできるかぎり原文に沿って訳していますのでわかりづらいかもしれませんが、その方が適当かなと思ったものですから、そこに5つ挙げておきました。 まず、テーマパークのテーマを世界に提示する。現出させるということです。ここで世界というのは、おそらく私のイメージでは会場の外という意味だと思います。すべての世の中と言いますか、そういう意味での世界だと思います。要するに、会場のなかだけでは博覧会は完結しない。そのテーマを外に示していくことが重要なんだ。そのために何をしなくちゃいけないのかということが、まず目的の1つとしてあったんだと思います。 それから次に、これもちょっとわかりづらいんですけれども、実験的解決が得られることでそれぞれが協働の作用を起こす。要するに、ワールドワイド・プロジェクトいうのは、テーマパークにかかわる幾つかのテーマ、確か8つほどだったと思いますが、そのそれぞれについていろいろな実践を行っている組織を公式に認定して、それに対してさまざまな支援をおこなうというかたちでやっていったわけです。要するに、テーマがただ単に独り歩きするのではなくて、あるいはテーマとしての理念が独り歩きするのではなくて、とにかく実践がある。あるいは実験でも構わない。そういう実験的な解決が、さまざまなかたちでおこなわれている。そして、それが世界に広がっていき、それが協働で作用を起こすことを構想したわけです。これも、会場の外へ博覧会のテーマが浸透していく。世界とか経済とかさまざまな分野に浸透していくことをめざしたということだと思います。 それから、2つめと似たようなことが書いてありますが、3つめにテーマが提示する理念と具体的な解決を活発化させる。要するに、理念が独り歩きしない、理念と実践の間で相互にやりとりをしながら、その問題解決の方向へと、社会や経済、あるいはさまざま主体を動かしていくという考え方です。これは、経済・社会・文化にかかわるドイツの政策に共通した考え方で、先ほどドイツは、理念主義的だと言いましたけれども、それと同時に現実をよく見て、その理念と現実との間で相互作用しながら、理念を実現していくというような意識が強い国です。そういうことをハノーバー博でも推進し、展開しようと考えたんだと思います。 4つめに、EXPOコミュニケーションを強化するということがあります。これは、おそらく市民参加、つまり博覧会を市民にどのように理解してもらうか、どう参加してもらうかということを働きかけをしようとした、それをEXPOコミュニケーションと呼んでいるんだと思います。反対が強かったなかで、博覧会やそのテーマをいかに市民に浸透させていくかが大きな課題だったわけで、ワールドワイド・プロジェクトは、それに直面してどうすればいいのかをハノーバー博が一生懸命考えた成果だろうと思います。 それからもう1つ興味深いのは、地域経済を刺激する、活性化するということが、目的としてはっきりと掲げられているということ。これもユニークだと思います。少なくとも日本では、博覧会協会が、公式に地域経済の活性化をその事業の目的にかかげるということはあまりしないと思うんですね。博覧会協会は博覧会をやるところなわけで、副次的な効果としてあげることはあっても、その公式の目的の1つに含めるようなことはしない。愛知県や瀬戸市の方が、地域経済の活性化を目的に考えることは当たり前ですがね。しかし、ワールドワイド・プロジェクトの目的の1つに地域経済の活性化が加えられていた。確かに、この点で大きな成果があったようですし、そういう目的が明確に出されていたことは、評価されていいんじゃないかと思います。これが、成功した要因の1つだったのかもしれません。 ワールドワイド・プロジェクトについてもう少し詳しくお話しましょう。ワールドワイド・プロジェクトの実体というのは、EXPO2000のテーマやサブテーマに共鳴して具体化される事業というものを募集をして、それを公式に認定する。そして、認定されるとスポンサーがついたりするわけですが、そうしてその各種のプロジェクトや事業をEXPO2000が支援し、それらがEXPO2000の開催とともに実行される。その全体をワールドワイド・プロジェクトと呼んだわけです。認定される事業の主体というのは、公共機関、たとえばハノーバー市とか、いろいろな企業、それからNPO、環境保護の市民団体とか、さまざまでした。 これは1994年に立ち上げられました。開催が決定して、市民参加の問題を意識しながら立ち上げられて、最初はニーダーザクセン州やハノーバーを中心に始まりましたが、結局、それがドイツ国内はもとより全世界へと拡大をしていくということになりました。当初計画されていたもの、あるいは予想をはるかに越えて大幅に発展・拡大したと言われています。資料によりますと、どういうものが応募されて、そして採択されたのかというのがいろいろありますが、そのプロセスを見ていきますと、プロジェクト全体の進化といいますか、途中から自然にどんどん進化・拡大していったのがよくわかります。そして、スポンサーの強力な支援というものもあって、結果的には、ドイツ国内で応募総数約2,000のうち採択されたのが約276と、絞りに絞っていったようです。そして、国外では、ドイツ国内に比べますと、どうも国外は少し認定そのものが緩やかであったようですけれども、国際博覧会としては国外でやることにも大きな意味があるわけでして、123カ国で487件が認定されたと報告されています。 ワールドワイド・プロジェクトに関する報告書で、認定されたプロジェクトの実際の事業内容を見ていきますと、正直言いまして、「なんだこの程度のものか」とか、「こんなものでいれちゃっていいのかな」というものがいくつかありました。しかし、そういったものでもワールドワイド・プロジェクトとして認定され、博覧会のなかでちゃんとしたかたちで位置づけられ、そして、それがさまざまに作用し、大きな効果をもたらしたというのは、やはり評価されていいんだろうというふうに思います。 これについて、さまざまな社会的ならびに経済的な効果があったと言われているのは確かです。しかし、経済的にしましても、プロジェクトの中身は公共投資でありますとか、民間の企業の投資でありますとか、いろいろなかたちでおこなわれているのがごちゃまぜになっています。ワールドワイド・プロジェクトがなくても、このときに投資されたであろうものがたくさんあるわけでして、ワールドワイド・プロジェクトの純粋な経済的効果と言えるものばかりではないように思います。というわけで、あまり経済的効果を過大に評価することはできないと考えます。 社会的効果にしましても、ワールドワイド・プロジェクトを主催した担当者の報告書など詳しくを読みましても、確かに「よかった、よかった」というふうに書いてあるわけですが、「本当にそうかな」というところが正直言ってあります。しかし、それが、一過性博覧会事業であるにせよ、意識的に博覧会のなかに組み込まれ、しかもそのなかの重要な成果としてあるということは、やはり評価すべきだと思います。確かに、1つ1つをとって個々の事業を見ていきますと、それほどでないものもありますが、それが、地域にとって一過性の効果だけに終わってしまわない、あるいは、ただ会場のなかだけで終わってしまいがちなものを、目的意識から立ち上げていって、こういうかたちで自然に広がっていって、1つのまとまりあるものになっていき、そして大きな成果を生んだということでは、やはり、今回のハノーバー博で重要な役割を果たしたと言っていいと思います。 これは、1つの経済社会システムを背景にした手法だと思いますので、そう簡単にこのワールドワイド・プロジェクトを、日本人の方に説明しても、あるいは日本でこのままのかたちでやろうとしても、うまくいくかどうか、保証はないと思います。しかし、十分勉強するだけの価値はあるのではないかでしょうか。 最後に、「EXPO2000が私たちにくれた、とても大きな“プレゼント”」と書いていますが、このプレゼントというのは、1つは、これをうまく利用していけば、これからEXPO2005で市民参加とか、地域の取り組みを検討していくのに1つの道が見えてくるということです。もう1つは、その成功が、あるいはその成果が大きく評価されているだけに、EXPO2005にとってみるとかなり大きな負担といいますか、当然、このワールドワイド・プロジェクトに替わるもの、あるいはそれを越えていけるようなものを何か提示していかなくちゃいけないというプレッシャーがあるわけでして、それはEXPO2005にとっては大きな課題だろうと思います。 最後に「ハノーバー博から学ぶこと」ということで、これまでにお話したことから、EXPO2005に向けて、まさにこれから地域がどのように知恵を生かしていくことができるのかを考えますと、ありきたりですが、次の3つの点が重要ではないかと思います。 まず第1に、「まちづくりや地域計画の具体的なコンセプトで博覧会のテーマに迫る」ということです。ハノーバー博にとって、あるいはハノーバーにとって、「EXPOありき」で都市計画があったわけではないとことです。メッセ都市としての発展をめざすというのが最初にあって、そこにEXPOがあった。だからこそ、最初に説明したような成功と失敗ということになったんだ思います。今のEXPO2005の動きを見ていますと、そしてそれにかかわっていく地域の動きを見ていますと、どうも最初に何となく、ただ何となくEXPO2005というのがあって、もちろんそれはそれで重要なわけですが、それに合わせていくかたちですべてが進んでいく。たとえば、瀬戸市が、環境博覧会に合わせて環境保全都市になろうと取り組んでいく。それは、大変結構なことなんですが、しかし、その前に、その地域のまちづくりとか地域計画をこれからどうしていくんだというのが、まずあるはずです。いや、なければいけないと思います。そして、それを突きつめて考え、そこからその博覧会のテーマに迫っていく。 そもそも博覧会のテーマというのは、非常にすそ野の広い、ある意味では何でも受け入れられるようなものですから、そこからまず迫っていこうと。環境博覧会と市民参加型博覧会ということで、それに瀬戸市や周辺の市町村が取り組んでいくことは決して悪いことではないのですが、しかし、考え方の出発点として、まず自分たちが立つ地域からスタートしようという視点が重要ではないかなと、ハノーバーの様子を眺めながらつくづく思ったわけです。 それからもう1つは、先ほどから言っていますワールドワイド・プロジェクト、これはハノーバーの博覧会協会が考案して、そして次第に広がっていき、もちろんそのいくつかのプロジェクトはハノーバーやその周辺地域に拠点があったわけですが、印象としてはあまり「地域からの視点」というのはなかったように思います。しかし、このEXPO2005では、ハノーバーが準備を始めた時代から比べますと、ますますその地域から、あるいはローカルな視点からグローバルな視点へと情報発信をするやり方、たとえばインターネットの発展など、目覚ましいものがあります。そういうものを利用したかたちで、地域からグローバルへと発信していくような視点がないと、おそらくワールドワイド・プロジェクト的なものをEXPO2005で展開するにしても、うまくいかないし、そこのところはとても重要だろうと思います。そうなれば、当然、地域がそこに主役として出てくるわけで、博覧会協会としてはもちろんですが、地域としてもワールドワイド・プロジェクト的なものを考えていく必要があるのではないかと思います。 それから最後に、「市民参加の多様な意識と形態を吸収し、協働できる参加方式をつくる」ということなんですが、先ほども言いましたように、どうも市民参加というのを型にはめてとらえるのはやめた方がいい。ヨーロッパだけがいつも先進的だというわけでは決してありませんが、そもそも、日本で市民参加というのが十分に定着しているわけではありませんで、まだまだ成熟していない。そんなところに、たとえば「EXPO2005に市民参加していただく場合にはこうですよ」、あるいは「はい、こうしてください」というような、何か型にはまったようなもので参加を募っていくということではなくて、もっともっと市民の意識とか行動というのは多様なわけですから、当然、市民参加も多様ですし、そして日本的なものもありますし、それらをできるだけ多く吸収できるような、さまざまな市民参加が、多様な市民参加が協働して全体が盛り上がっていくような、そういう参加方式というのを考案していく必要があると思います。 もう1つだけお話を追加させていただきますと、どうも一番気になったのは、やはり今の日本と比べてハノーバー博はよく考えているな、工夫しているなと感じたことです。日本人も、一定の範囲内で一生懸命細かい工夫をするのが上手ですし、おそらく博覧会会場の演出などは日本人の方がはるかにうまく準備をし、成功させることができると思うのですが、よく考えるということは、いろいろな視点でしっかりと考え、そしてお互いに知恵を出し合って進めていくというところが、少しハノーバーやドイツと比べると欠けているかなという点が気がかりです。まさに、今日のパネル・ディスカッションのテーマである「地域の知恵」ということ、これから地域やそこに住んでいる人たちが、どのように考えることができるか、私は、この瀬戸の人たちは、ハノーバーの人びと以上に潜在的な能力をもっていると確信していますが、そういうところを博覧会に向けてどのように引き出していくか、どう生かしていくのかというのが、これからの大きな課題だろうと思います。 それでは、今日の私からのお話はこれぐらいにさせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。 【質疑応答】 ○司会 どうもありがとうございました。 ハノーバー博が果たして成功したのか失敗したのかとよく言われます。ハノーバー博が総体として成功したとか失敗したという言い方は多分意味がないので、いかなるところにおいては成功し、いかなるところに問題があったのかという分析をきっちりやれば、次の愛知万博への橋渡しができる。そういう意味で20世紀最後の博覧会と21世紀最初の博覧会は全然違うのだというところへ持っていければというふうに思いますが、今の小林さんの報告をお聞きになって質問がございましたら、お受けしたいと思います。 ○質問者 今、ワールドワイド・プロジェクトということについて、中心的に発表していただいたんですが、事業の内容は具体的にどういうふうなものがあったのか、今のお話だけではよくわからなかったので、もうちょっと教えていただけないでしょうか。 ○小林 ちょっと抽象的なお話ばかりだったんですが、サブテーマのなかには、たとえば労働とか、それから食文化とかいろいろものがあります。もちろん環境やエネルギーもありました。そういうなかで、その個々のテーマに関連した事業の具体例や実験がいくつか展開されています。たとえばエネルギーですと、風力発電の実験プロジェクト、それから省エネルギータイプの技術を開発する企業のプロジェクト。そういうプロジェクトにはスポンサーがついたり、ついていなかったりしますが、それらを公式に認定して支援していくわけです。食文化に関しては、有機物だけで製造したハム・ソーセージのお店が認定されたりといった感じです。まさに、事業内容は多種多様です。そもそもテーマが多種多様なものですから。事業の規模も、非常に大きなものもあれば、小さなものもあります。それから、民間企業だけではなくて、たとえば、先ほどご紹介した、ハノーバー市が開発した環境重視型の住宅地開発も、そのなかに入っています。ですから、「なんとか上手にまとめてある」というのが実際で、その事業の1つ1つをとってみた場合、「何だこんなものまで」というものも、なかに入っているわけです。でも、それらがうまくハノーバー博のなかで1つの重要な事業として展開され、「ワールドワイド・プロジェクト」という枠組のなかに組み込まれているということ、それによってそれらの事業が、博覧会と連動し、そのテーマと共鳴するというところがとても興味深いと思います。 ○司会 ほかにもう1件ぐらいあれば、どうぞ。 ○質問者 ハノーバー博のテーマが環境ということなんですが、私は、環境と聞くと、行くと説教されるような感じがしちゃうんです。自分の生活とかがあまり適していないのかなと思ったりして。だから、私たちが行ってもすごくおもしろいというか、楽しめるような展示は何かありましたか。 ○小林 おもしろいというか、アミューズメントとか、そういう意味で、「ハノーバー博はまったくおもしろくなかった」というのが私の印象です。私は、多少ドイツ語がわかりますが、それでも全然おもしろくない。テーマ館は、何か本当に説教を聞いているみたいでした。そんな印象です。ただ、それだけに「すごくまじめに考えているな」というところがありました。 もう1つ、今のご質問で思い出したのですが、日本で博覧会をやりますと、おそらく遊園地をつくらないと人は集まらないということになる。ハノーバー博会場のなかにも小さな遊園地や遊び場みたいなものはありましたが、とても万博の遊園地と言えるようなものではありませんでした。あれではとても人は集まらないだろうなあと思いました。だから、そういう「おもしろさ」とか、人の興味を引くという意味では失敗だったということです。「ただ何かを見せる」というようなメッセ的なものであったことは確かだと思っています。もちろん、評判のよいパビリオンの1つ1つを見れば、内容のあるものや体験しておもしろいものもありましたが、ただ全体の印象としてはそんな感じが強かったと思います。 ○司会 どうもありがとうございました。環境というのは、現代の最大のキーワードであるにもかかわらず、環境を話題にするとどうも皆さん、おもしろくないだの堅いだの、いろんなことをおっしゃる。これは、実は愛知万博でも非常に深刻な問題であろうと思います。愛知万博は、「環境」という言葉でなくて、「自然の叡智」でありますとか「共生」でありますとか、ますますわけのわからないタームを使っていますが、その中でどういうおもしろさを出していくのかという話。おもしろさというと、アミューズメントパークのようなものを想定してしまいがちですが、そうでない21世紀型のおもしろがり方というのがあるんじゃないかというところへ、おそらく、これからだんだんと収斂していくんだろうなあと思います。
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TOP>NGU EXPO2005研究>第3号(目次)>V.パネル・ディスカッション報告 |
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V パネル・ディスカッション報告 「EXPO2005:地域の知恵 ― ハノーバー博をこえて ― 」 名古屋学院大学総合研究所 EXPO2005プロジェクト研究 シンポジウム 2001年1月20日 せとしんエンゼルホール |
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【シンポジウムの開会】 ○司会 いきなりの雪になりまして、出足が若干遅いんですけれども、定刻を過ぎましたので始めさせていただきたいと思います。きょうは、いろいろなところからここへお集まりいただきましてどうもありがとうございます。 私どもの研究所、名古屋学院大学総合研究所が、愛知万博の調査研究を始めて3度目の冬がやってまいりました。毎年度1回ずつシンポジウムですとか、ワークショップですとか、そういうものを続けてまいりまして、昨年12月にBIEで私どもの愛知万博の開催が正式に位置づけられたということもございまして、それではいよいよ私どもがどういうかたちで、地域として博覧会にかかわっていけるのかというあたりを少しまじめに考えようというのが、本日の試みでございます。 昨年、ドイツのハノーバーで博覧会が、「EXPO2000」が行われまして、今ちょうどバックグラウンドミュージックで流れておりますのが、「EXPO2000」という音楽だそうで、これは、昨年、ハノーバーに調査に参りました一行が、調査もちゃんとやったんだと思いますけれども、調査のかたわら仕入れてきましたCDです。音楽を持ち帰った張本人がおりますので、水野さん、ちょっとこれ、何なのか教えてあげてください。もうちょっと音楽大きくできますか。 ○水野 これはドイツのテクノバンドで、「クラフトワーク」という70年代に活躍したバンドです。そのバンドが今回、ドイツのハノーバー博ということでテーマソングをつくったということです。 ○司会 そういうテクノだとかクラフトだかよくわからないものでございますが、多分2005年にも日本のアーティストがこういうことをやって盛り上げていくのだろうと思います。 実は博覧会の登録がうまくいきました後、かなり瀬戸地域も虚脱状態なのかどうなのか、さあどうしようというふうにすぐ動かない状況がございます。ここらで活を入れなきゃいけないなというので、1月の下旬から2月にかけまして、瀬戸でいくつかのシンポジウムが博覧会に絡めてございます。そういうもので少しずつではありますけれども、地域としての取り組みのあり方ですとか、そういったものを徐々に煮詰めていこうと。その第一弾として、私どもがこの「EXPO2005:地域の知恵−ハノーバー博をこえて−」というタイトルで、博覧会に絡むシンポジウムを開催させていただくことになったわけでございます。 今日は、第1部、第2部と分けまして、第1部はハノーバーで行われた経験をどう私たちが理解し、どう継承するかということを、名古屋学院大学から派遣いたしました4人の調査団が、いろいろなところで、会場の中も外も、あるいは地域連携のあり方も調査してまいっておりますので、そのあたりの報告を聞いていただいて、なお若干素人ではございますが、ビデオがございますので、それを見ていただきたいということでございます。 第2部はパネル・ディスカッションで、地域のあり方と、それから21世紀の初頭に開かれる博覧会というもののもつ意味、あるいはそれが地域で開かれることの重要性、あるいは市民参加のあり方、そういったものを議論していきたいということで、4人のパネリストと私で進めてまいりたいと思います。きょうは、ゲストスピーカーに東京大学の吉見俊哉さんをお招きしておりますし、地元からはハノーバーに行ってこられた長谷川さん、それから地元でずっと活動していらっしゃる長江さん、それから私どもの小林と、そして私というかたちで進めさせていただきたいというふうに思っております。 まず第1部から始めさせていただきます。基調報告ということで、「EXPO2000とハノーバーの知恵」ということで、名古屋学院大学の小林の方からご報告をさせていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。 【小林:基調報告「EXPO2000とハノーバーの知恵」】(Uを参照) 【第2部:パネル・ディスカッションの開始】 ○司会(木村) それでは、今から第2部のパネル・ディスカッション「EXPO2005:地域の知恵」を始めさせていただきます。冒頭でご紹介いたしましたように、本日は、ゲストスピーカーで東京大学の吉見俊哉さんをお招きしております。最初に少し吉見さんからお話しをいただいて、あとパネラーの方を交えてフリートーキングをしたいと思うんですが、実は大変限られた時間で、吉見さんには今のところ20分でまとまった話をしなさいという、象に犬小屋で寝なさいというぐらいむちゃな話をしておりますけれども、少しぐらい時間を超過していただいても結構でございますので、お話しをお聞きしたいと思います。 きょうお配りした資料がございまして、一番上が小林さんの先ほどのレジュメでございますが、それ以外は全部吉見さんのものでございますので、またお帰りになりまして、ゆっくりとお読みいただきたいと思います。それから追加が1枚、きょう付いてございます。 それでは東京大学の吉見さんからお話を聞かせていただきたいと思います。どうぞ吉見先生、お願いいたします。 【吉見 俊哉氏のお話】 ○吉見 きょうは、本当にこういうところにお招きいただきましてありがとうございます。時間が20分で、問題提起というか、話の導入みたいなものですので、それほどちゃんと準備してきていないんですけれども、ここらで話をさせていただきたいと思います。 きょうのテーマは「地域の知恵」ということなんですけれども、紹介にもありましたように、私は、地域の人間ではないわけでして、東京の人間で、東京の人間が、愛知万博のこの問題にどういうふうにかかわるようになったのかという、半ば自己紹介的な話から始めさせていただいて、そして少し私がこの愛知万博の意味というのはどういうことだというふうに考えているかということを話して、問題提起に代えさせていただきたいと思っています。 お手元にあります資料の中で、1つめくっていただきますと、最初の小林先生の先ほどのものをめくっていただきまして、それの裏側を見ていただきますと、2つ、両方ともこれは、朝日新聞ですけれども、私が書かせていただいた記事が出ているかと思います。片方は「使命を終えた『博覧会』」というふうになっていて、これは日付が1995年の5月のものです。もう片方は、「揺れる愛知万博」というふうになっていて、2000年の2月のものです。何でこの2つをここにあげたのかと言いますと、読んでいただければわかるんですけれども、私自身のある種の立場というか、結論の部分が5年前の95年と2000年で逆転しているように見えるからです。95年の方の記事を見ていきますと、要するに「万博の時代は終わったんだ、基本的には博覧会をやる意味はないんだ」と言い切っているところで終わっています。その理由については、読んでいただければわかるかと思いますけれども、かつて万博の時代を支えていたようないくつかの社会的な条件というものが既にもう失われているからだということの説明になっています。 それに対して、2000年の方の記事は、「確かに万博の時代というのはもう終わった」、「終わったんだけれども」というか、「けれども」と言うよりも「終わったがゆえに」、「そうであるがゆえに、愛知万博というのは一連の曲折を経て、大変意味を帯びてきていて、だからこそやる価値があるんだ」というふうな主張になっています。私自身は、別に転向したというふうには思ってなくて、前半の方の博覧会の時代が終わっているという考え方を突きつめていくと、むしろ愛知万博はだからこそやるべきだというふうな結論に達するというふうに思っていますけれども、一見何か、吉見は、万博否定派から賛成派に転回したんじゃないかみたいな見え方がするかもしれません。そうじゃないんだということを説明したい気がするんです。 そのためには、非常に個人的なことになりますけれども、1つ1つ一般論として話すというよりは、どちらかというと、私は、この愛知万博の一連の問題やプロセスとかかわり合うなかで、何に価値を見出してきたのかということを一人の社会学者としてというか、一人の個人として話をしたいというふうに思いますので、私自身の個人の博覧会、愛知万博とのかかわり合いについての話を振り返らせていただくところから、個人の立場からということになりますけれども、話をさせていただきたいと思います。 私が、最初にこの愛知万博の問題と出会ったのは、そちらにきょういらっしゃっていますけれども、曽我部行子さんたちが94年の12月に愛知万博に反対する集会、「今、愛知万博を問う」というので、曽我部さんや北岡由美子さんたちが、ものみ山の自然観察会から開かれた市民集会がありまして、そこで話をしに行ったんです。そのときには、博覧会の時代というのが、どういう理由で、どういうふうにもう終わっているのかということを説明をいたし、話をいたしたように覚えています。それが最初の愛知万博との出会いだったわけです。 その一方で、多分95年ごろだったと思いますけれども、通産省の方から呼び出しがかかりましてヒアリングを受けました。当時、確か愛知万博の基本構想委員会というのができて、準備をしていたわけですけれども、その進行途上で何人かの知識人というか、学者に話を聞くということで呼び出されたんだと思います。そこで私自身は、大阪万博型の博覧会というのをもう一度やってしまうということがいかに時代錯誤というか、無意味であるかということをかなり否定的に言ったわけです。非常におかしいのは、普通はそこで門前払いを食って、「こいつ、使えない」というふうになるのが普通なわけですけれども、その当時の通産省が確信犯的にちょっと変だったのは、むしろそういうふうな否定的なというか、批判的な意見を言う人を非常に熱心に取り込んでいこうとしていたというところがありまして、通産省等とのそういうかかわりというのがあったわけです。 その後、その延長線上で企画調整会議の委員をしろというふうに言われて、大変これは迷いましたけれども、結局、私はいろんな批判的な意見も言うし、そのなかで得た情報というのも外にいろんなことにも伝えもするということをいくつかの条件を出して、企画調整会議の委員になったわけです。これがスタートしたのが98年の春だったと思います。 その企画調整会議のなかで言っていたことというのは、大きくいうと2つあったと思います。1つは、もし21世紀に博覧会をやる意味が幾ばくかあるんだとすれば、これは技術を展示する博覧会からむしろ明確に、環境をめぐる問いを世界に向けて提起する博覧会に変わらなければいけないということが1つでした。この点に関しては、比較的多くの企画運営委員が同じような主張をしていた部分があったように思います。 それからもう1つが、市民参加にかかわるわけですけれども、もう1つ、それを一体だれが担うのかといったときに、これは企業の博覧会でもないし、それから国主体の博覧会でもなく、もし21世紀の博覧会があるとすると、むしろ市民の博覧会にならなければならない。そのためには、市民がいかなるかたちで担い手になりうるのか、その枠組をどういうふうにつくるのかということが決定的に重要であって、さらに合意形成の民主主義というものが、情報公開を含めてもっとちゃんと進めなくちゃならないということを言っていたんですけれども、これはほとんど聞いてもらえなくて、そういういろいろな経緯があるんですけれども、一時辞表を出しかけたりとかいろんなことがありました。 そういう同じような問題意識を持っていた人たちが企画調整会議のなかにも何人かいて、それがちょっと半ば全体の流れとはやや意識を異にするというかたちで、市民参加研究会というのをなかでネットワークとしてつくってきました。この経緯というのは、あまり表には見えなかった部分ではありますけれども、98年から99年にかけて、98年に主としてあったわけです。もちろん、これは、今はもう状況の方が先に進んでいるところがあるんですけれども、ただ、その市民参加研究会というところのなかで考えようとしたことは、新しい市民参加の枠組というものをどうやったらつくっていくことができるだろうかということで、この資料のなかにもその次のページにございます。この日付は、98年の10月というふうになっていますが、要するに19世紀の博覧会が国家の博覧会であり、20世紀の博覧会が企業の博覧会であったとすれば、もし何かポスト博覧会的なものが21世紀にあるんだとすれば、それは市民なり市民的な組織、ネットワークが主体となるような博覧会、あるいはそういうプロジェクトにならないといけない。そのためにはただお金もない、あるいは公的支援もないというなかでは非常に限界がある。むしろ、Bタイプ・Aタイプ・Cタイプとなっていますけれども、企業的な資金とか、あるいは自治体のいろんな行政的なサポートというのを組み込んでいくようなかたちで、地球市民運営委員会というふうにここで言っていますが、そういうものをつくって、そしてパイロットプログラムのようなプロジェクトをつくり出して、半ば意思決定としては博覧会協会から自立的な組織としてつくり出していくことができないだろうかというようなことをいろいろ考えていったわけです。実際には、今、検討会議のなかで、谷岡さんがそちらにいらっしゃいますけれども、谷岡さん中心に考えられていることがもっと発展したかたちで考えられていると思います。こういったようなことを考えながら、それもこういった提案を企画調整会議のなかで、これは力足らずだったわけですけれども、提案を何人かでしながらも、これは、企画調整会議のなかで恨みつらみの話になっちゃうといけないので、与えられる時間5分とか10分とか、全然、議論されずにずっとその後、半年、1年というのが過ぎていきました。 それは、別に恨みつらみということをここで言いたいわけでは全然なくて、ただそこのなかでずっと市民参加の問題というのは、かなりいろんな側面から、いろんなフレーズから繰り返し言われてきたし、それからいろんな案が既に出てきていたというふうなことがあります。その後のオオタカの出現以降の一連のプロセスについては言うまでもないことだと思いますけれども、もう1つ私がかかわってきたことでいえば、そのオオタカが出て、そして協会の体制が非常に混乱していく前までというのは、いろんな意見が出てもそれぞれの委員会とか、それぞれのセクションのなかでかなり分割統治というか、横のネットワークが本当になかったんです。それがようやく99年の夏ぐらいから横のつながりができ出して、それは、協会自体のなかでもでき出して、いろんな動きがあったということです。 そういったことのなかで、私自身は、最初は、博覧会のそのものの形態というか、博覧会を21世紀にやるということ自体にかなり否定的であったわけですけれども、しかしそういったような横のネットワーク、それは博覧会協会のなかというよりも、博覧会協会の外でいろんな市民運動のなかで動いてきているようなネットワーク、そういうもののなかで出てきた動きが、この博覧会において極めて新しい可能性を持ってきているというふうに感じるようになりました。そして、それ自体、むしろそういう転変のプロセス自体のなかに博覧会を内側から壊していくような目というか、新しいポスト博覧会というんでしょうか、これまでの万博がいまだに僕は意味があるとは思っていませんけれども、しかし、それとは非常に違うものを、その殻を破って生み出していくようなエネルギーというかパワーというものが、愛知万博の一連の動きのなかにはあるんだというふうに感じるようになってきました。 そのことは、この『世界』に書かせていただいた論考のなかでかなり詳しく触れているわけですけれども、かいつまんでその話をちょっとしますと、細かくはこの『世界』の方の文を読んでいただきたいと思うんですけれども、すごく大ざっぱに分けてしまうと、これまでのプロセスというのは、大体5段階ぐらいにこの愛知万博をめぐる動きというのを分けることができると思うんです。 第1段階、つまり最初に愛知万博、2005年万博というものが構想をされたときには、これも詳しい説明を省きますけれども、これは非常に言ってしまえば旧来型といいますか、ある種大阪万博の二番煎じ的な構想であったというふうに言わざるをえないと思います。88年・89年に、前鈴木知事が構想されたときのことを私は今言っています。 それが一方では、海上の森あるいは会場予定地からの反対運動の盛り上がりや、さまざまな市民のネットワークの広がりのなかで、そしてもう一方では万博というイベント自体が、たとえばウィーンとブダペストでやる予定だった万博が中止になったりとか、ハノーバー博も、先ほどの小林先生のお話にありましたように、51対49という僅差で何とか開催にこぎつけるわけですが、非常に危うい状態だった。そういうようなことに見られるように、万博というイベント形式そのものがかなり危機に瀕していることが明らかになっていったというような流れのなかで、90年代半ばになりますと、県の最初の構想に対して、むしろ国がかなり強力に介入していって、基本コンセプト、あるいはテーマのあり方を相当変えてしまう。はっきり環境万博といいますか、自然の叡智。その前に、むしろ「Beyond Development:開発を越えて」というテーマが前面に打ち出されてきたということが非常に大きいと思いますけれども、そちらに変えてしまうということが、この愛知万博のなかで起こったわけです。これは、テーマの変遷を見ても、最初にこの万博が構想されたときのテーマというのが、「人類の発展と平和」あるいは「芸術の世紀、心の世紀」「自然と人間の共生」「宇宙時代の人類社会」とか、そういういろんなことを言って、やがてこれが「技術・文化・交流 ― 新しい地球創造」というものになっていくわけですけれども、ここでは、まだ環境博というよりは、かなり総花的なテーマを出していたわけです。これに対して、これでは乗り切れないというふうに多分見たのでしょうか。国の側からの介入というようなかたちで「Beyond Development」というテーマが、非常に先端的なものが出てくる。これが第2段階であったわけです。 そして第3段階というのは、この理念レベルでの開発を越えるという、つまり「開発を越えて」というテーマが博覧会のテーマとして、なぜかなりラディカルだったかというと、やはり19世紀あるいは20世紀半ばまでの博覧会というものは、あるいは博覧会の歴史というのは、開発の歴史そのものであったというか、博覧会と開発主義というのは極めて表裏をなすようなかたちで結びついてきたということが前提にあるからです。そうすると、それをBeyondしようということは、これまでの博覧会のあり方のかなり重要な部分を否定するという契機を、少なくともテーマのレベルでは含んでいたわけです。ただ、第3段階で一層問題になってきたことは、この「開発を越えて」というテーマが出てきたことによって、現実に瀬戸で、特に海上の森で行われようとしていることと、このテーマとのよく言われるようにギャップがとてつもなく大きくなってしまったということです。跡地利用計画や新住・道路計画を含めて、会場で現実にやられようとしていることと理念でうたわれていることの矛盾というのは、もはや抜き差しならないものになって、こういう先端的なテーマを出したがゆえになってきたという部分もあると思います。 そして、これも皆さんよくご存じのように、その矛盾の激化というか、矛盾の深まりというか、矛盾が大きくなっていくプロセスというのがちょうど96年ぐらいからでしょうか、96年・97年・98年といったところであったわけですし、先ほどの企画調整会議の成立、あるいはBIEでの開催権の獲得や、企画調整会議での一面のプロセスというのもまさにそれの矛盾が激化していく過程であったわけです。激化していくというのは、今ちょっと外側に立ったような言い方をしていますけれども、みんな何もしようとしていなかったわけでは決してないと思いたいです。ただ、あるいは僕自身もそう思っている部分がかなりあるんですけれども、でも結局何もできなかった部分があるように感じます。これも話すと長くなりますから、そこもちょっとはしょりたいと思います。そういったような矛盾が一気に噴出していくのが、これは皆さんご存じのようにオオタカの営巣発見以降の99年の夏ぐらいから2000年3月のBIEによる例の指摘が明らかになり、そして新住・道路計画が中止になっていくまでのプロセスであったわけで、この矛盾が一気に噴出していくプロセスを第4段階というふうに言うことができると思います。 そして最後の第5段階というのが、検討会議からBIEのこの間の登録までだったわけです。今は多分その第6番目のフェーズに入ったところなんだと思います。少なくとも第5番目の、5つの今まで言った段階のなかで、愛知万博の意義というか、何が今までにない大変重要な意味だったのかというふうに言いますと、今ちょっと私は、愛知万博のこれまでの意義は何であったかという言い方をしてます。というのは、私の認識ではもう愛知万博というのは、ある意味で始まっている。既に始まっているというふうに感じています。どこからと言うのは難しいんですけれども、さまざまな介入によって話が非常に複雑になり出したころから、やっぱりこれは20世紀の終わり、あるいは21世紀に何か始まるかもしれないというものを象徴する動きになってきていたわけで、広い意味での愛知万博というのは、もう既に始まっているというふうに私は認識しています。 これまでの愛知万博で何が意味があったかというと、その元は非常に旧来型であったというものが、一方では国レベルの上からの介入、そしてしかし他方では、むしろよりによってテーマが変わっている。だけど、他方でもっと重要だったのは、むしろ実は市民の側からの介入であったと思うわけです。これも先ほどの『世界』の文章のなかに書いていますけれども、これは、僕が新聞やいろんな資料を見ていくなかで考えていることですので、ひょっとしたら間違っているかもしれないけれども、私が、今認識しているかぎりでは、少なくともメディアによる行動に関するかぎり、海上の森に会場が決まった時点で、あそこを「海上の森」と呼んでいる報道は多分ないと思います。むしろあそこの「海上の森」というふうにみんなが名づけ、そして「海上の森」と思うようになっていったのは、その後の、それは、ものみ山の自然観察会の人たちや、いろんな市民の人たちがあそこに入って、だから市民の間ではそういうふうに呼ばれていたのかもしれないんですが、入って、そしてみんなが「海上の森」というイメージを、会場があそこに指定された後、あそこにかかわり合っていくなかで発見していくというか、見出していくんです。そのプロセスが、大変僕は重要だというふうに思っています。 実際に、あそこの自然の貴重さとか、森の価値自体も、つまり博覧会会場があそこに指定されて、そして指定されたことによっていろいろな人たちがあそこに自然とかかわり合っていく。かかわり合っていくことによって「海上の森」の価値というものが発見されていくわけです。この市民の側からの「海上の森」の発見というものがあったわけです。これが、上からの介入というだけで終わらせないで、それをもっと大きな動きにしていったもう1つの、しかもより重要な力であったわけです。 そして実は、これも大きく非常に図式的に言うと、3つの力が作用してきたというふうに思います。これは、情報化社会ということと関連しますけれども、もう1つの力というのは、これがまさにローカルなものとグローバルなものがダイレクトに結びつくような社会状況のなかで起こっていった。だから、99年のBIEの指摘にしても、これは単に黒船のように、突然BIEがやってきて、そして問題があるではないかというふうに指摘したんでは全くなくて、やはり地域のなかで愛知万博の跡地計画に関する問題点をめぐるいろんな議論があって、そしてそのローカルないろんな動きが、ナショナルな団体を媒介に、グローバルな組織に直接つながっていく。だから、国の計画が、いわば国よりももっと上という言い方は語弊がありますけれども、広がりを持った国際機関と、それから非常に「海上の森」という場所にずっと根づいた運動という両方がつながるようなかたちで、いわば挟み撃ちにされるようなかたちで変わっていかざるをえなくなっていったというところ、つまり横と言ったらいいんでしょうか、あるいはこのローカルなものとグローバルなものが一体になってしまうような場所のなかで介入が起こっていったということがもう1つあるわけです。 ちょっとあいまいな言い方で言えば、上と下と横からの介入によって海上の森の計画というのは大きく変わっていくわけですけれども、そのいろいろな介入によって変わっていった、どういうふうに変わっていったのか、その万博というものを前提にして見てしまうと、これは一種の縮小というふうに見えてしまうんですけれども、その流れのなかで、やっぱり新しい社会の仕組みのプロトタイプみたいなものが、検討会議の前に谷岡さんの大変な力もあって、実際にある程度いろんなことが実現しちゃった部分もあるわけですけれども、新しい社会の何か非常に芽のようなものというか仕組み、これは新しい万博と言うよりも、新しい21世紀の市民社会というか、21世紀の社会そのもののプロトタイプのようなものがここで実験されていってしまうということがあったわけです。それは、海上の森を市民が発見していくというところからずっと来ているわけです。そこに私は、愛知万博の大変大きな価値というものを見出しています。 そうだとすると、「市民参加の環境万博」というふうに言うときに、たとえばさっき休み時間に曽我部さんとちょっと話していたところでもありますが、環境で多分なかなか客が集まりにくいとか、いろんなことが言われています。それから市民参加というんだけれども、じゃあ市民に本当に責任が担えるのかとか、それからやっぱり結局そこまでだめなんじゃないかとか、いろいろ言われています。だけれども、これは20世紀の枠組というか、あるいは20世紀の枠組というよりもうちょっと厳密にいえば、国民国家の枠組というふうに言った方がいいとは思うんですけれども、そういうこれまでの社会の枠組、それからそれはこれまでの万博のあり方と一体になってきたわけですけれども、そういう枠組を前提にしたときの価値観からすれば、それが、でもかなり社会の大きなドミナントな部分であるから、なかなか大変なわけではありますけれども、前提にしたときに環境は金にならないとか、おもしろくないとかいう価値観が出てきてしまうのかもしれないし、それを前提にしたときに、市民のやれることは限度があるというふうに出てきてしまうのかもしれない。しかし、その前提そのものを変えるプロジェクトとして、むしろ愛知万博というのを私は考えたいというふうに思っています。 最後、もう少しうまく言いたかったんですけれども、うまく言えなかったところもあります。時間が超過してますから、ここまでにしたいと思います。 【司会者のコメント】 ○司会 ありがとうございました。吉見さんには、大変端的に、愛知万博がこれから開催されることの意義、あるいは意味づけの発見のようなところをお話しいただきました。20世紀型のというか、国民国家が主体となってやるような万博の意味づけというのはもう既に終わっているのだ、そういうことをずっと言ってこられた吉見さん自身が、「だからこそ愛知万博はやるべきだ」というふうにおっしゃるようになった。これは決してお考えが変わったわけではなくて、「だからこそ」「ゆえに」という部分が大変大事でありますけれども、その結論としてやっぱり愛知万博はやる価値があるというふうに言われる、そういうプロセスをたどっていったその第一歩は、多分、海上の森にこだわり続ける人たちが、海上の森そのものを発見していったプロセスであろうと。これも、吉見さんのお話の仕方でありますけれどもそういうこと。 それから、地域にこだわるということは、実はグローバルな状況だとか意識だとかというものと、極めて密接にダイレクトにつながりうるものだということが、その過程でもって明らかになってきたということ。そういうことがベースになって昨年、随分侃々諤々とおこなわれました愛知万博検討会議のようなものを生み出していった。愛知万博検討会議がよかったか、成功したか、いろんな議論がありますけれども、私は、むしろそういうことの検証はずっと後でやればいいことでありまして、今、吉見さんがおっしゃった21世紀型社会のプロトタイプを実践してきたようなところが見え始めたというところに意義があったんだというふうに考えればいいのじゃないかと思っています。 この瀬戸市は、実は「愛知万博」と言わずに、ずっと前は「瀬戸万博」という言葉がございまして、「瀬戸で万博をやるのだ」というふうにみんな思っていたわけです。いや、瀬戸で万博をやるのではなくて、「瀬戸で万博をやってくれるのだ」というふうにみんな思っていた。ところが、どうもだんだん話がおかしくなっていって、そうではないらしいと。だんだんおかしくなった当事者がいっぱいいますから、きょうは後でフロアからの発言を聞きたいと思いますけれども、そのなかでたぶん2つの考えというか思いが瀬戸のなかには大きく出てきた。「何でせっかくやろうと言っているのをやってくれないの」という人たちと、「いや、私たちが積極的にかかわるために何をすればいいのか、やっぱり基本的に考え直そうよ」という人たちと、2つの大きな流れができ上がってきた。もちろん万博なんて論外だという人はいまだにいます。いまだにいて、決してそれも少数派ではないのかもしれないけれども、積極的に博覧会にかかわろうとする人たちのなかに、そういういくつかの考え方の違いのようなものができ上がってきた。 ただ、今となっては、私たち自身がどう具体的に積極的にかかわるのかということを、はっきりとさせていかなきゃいけないのですけれども、まだ瀬戸のなかで見ておりますと、博覧会になると何かがやってくるかもしれない、何かが起こるかもしれないという期待感の方がかなり膨らんでいくんですけれども、そこから先がなかなか出てこない。あるいは「メイン会場が長久手に行っちゃってつまんないね」という人も出てくる。 じゃあ、長久手は博覧会の地元になったのかというと、まだどうもその心構えが十分にできていないようでありまして、もちろん、突然降ってわいたような話という意味もありますけれども、まだどうなっていくかよくわからないということで、地元意識が十分に芽生えているとは、私には思えない。そういうところを含めて、私たちは地域の問題として、ハノーバーを越えたEXPO2005を考えなければならない、そういう状況に立ち至っていると思います。 【パネル・ディスカッション】 きょうはあえて長久手からの方を地域の代表としてはお招きいたしませんでした。瀬戸にかかわる方、お二人をお招きいたしておりまして、お一人は、長谷川武宏さんでございまして、現在、2005年日本国際博覧会推進瀬戸地区協議会でお仕事をなさっていますが、瀬戸市役所の方でいらっしゃいます。というよりは、ハノーバー博へずっと行っていらっしゃって、向こうでお仕事をなさっていたという方でございます。 もう一人は、長江有祐さんでございますけれども、瀬戸地域でずっと博覧会のことも含めて、新しいまちづくりに取り組んでいらっしゃる「未来創造・21せと市民の会」の代表世話人でいらっしゃいます。そのお二人の方を交えながら地域の問題として、地元の問題として、私たちはどういう取り組みをすればいいのか、どういうふうな発想でもってものを考えなければならないのかということを考えていきたいと思ってこういう構成にさせていただいたわけであります。 吉見さんが、いろいろおっしゃるなかで一番大事なことは、市民自身が21世紀的に自覚しなければいけないということだろうと思いますけれども、言葉としては非常に多くわかるんですけれども、では瀬戸市民は、どんなふうに21世紀的に生きればいいのかという話になりますと、さっぱりよくわからないという部分が出てまいります。理念的な話をちょっと横へ最初置かせていただきますけれども、具体的に瀬戸の人たちがどんな期待感を持って、今、このEXPO2005に取り組もうとしているのかというあたりを、少しお二人からお話しを聞かせていただいて、話を続けていきたいと思います。 最初にお断りしておきますけれども、きょうはこのパネラーの間で事前打ち合わせを一切しておりません。ぶっつけ本番でやらせていただいておりまして、何が飛び出すか私にもわかりません。どういう質問が出てくるか、パネラーの方々もわからない状態でいたしますので、混乱しましたら私の責任でございますが、まず長谷川さんから瀬戸を代表してハノーバーに行ってこられて、ハノーバーをごらんになった経験から、瀬戸はどんな博覧会を構想するべきであるのか、あるいはそれに対して市民は何をすべきなのかということを少しかいつまんでお話しをいただければと思います。 ○長谷川 先ほど学長の方からご紹介いただきました、2005年日本国際博覧会推進瀬戸地区協議会、長いものですから非常に言いにくいんですけれども、そこの事務局を担当しております長谷川と申します。 きょうの立場としましては、どちらかというと協議会の立場というよりも、私はハノーバー博覧会の方に日本館、肩書を言いますと非常に格好いいんですけれども、広報渉外部の部長をさせていただいて、6カ月間現地の方で勤務をさせていただきまして、いろんな日本館に訪れる皆様の接待等も含めて、あと日本館が今何をやっているかということを、いろんな機会を通じてハノーバー市内、また全国等にPRをさせていたただくといったお仕事をさせていただきました。 先ほど小林さんの方からハノーバー博覧会のことについておおむねお話をいただいたので、その辺は質問があれば私の立場でお答えさせていただきますけれども、私の経験上、瀬戸市内、また市民活動されている皆さん、市民の方々にこういうことをしていただきたいということが、非常にいつも思っていることが実はあります。今回の2005年の博覧会というのは、「参加の博覧会」と呼ばれて非常に長くなってきたわけですけれども、どういった参加があるのかといったことが非常によく言われています。当協議会にしましても、市民参加を促すような事業、市民団体がやられる、活動団体がやられる事業費の補助だとか、今ですとそういうボランティア活動をされたい方の募集等やっていますけれども、自分自身も協議会を運営しながら何をやっていいのかということが非常に不明確なことがありますので、こういうのを市民の皆様とつくっていきたいなと思いますけれども、きょうは発言としては個人の発言をさせていただこうかなと思っています。 いろんな参加の方法があると思います。先ほど、小林さんの方から少しご紹介がありましたハノーバー博覧会は、ボランティア、市民参加はほとんど見られなかったといったご指摘がございました。実際に、皆さんがイメージする、たとえば会場のなかでのボランティアによる通訳サービスだとか、会場案内だとか、介護サービスといった車いすのサービスといったものにつきましてのボランティア参加といったものはありませんでした。これはひとえにドイツ国内の就業率の低さといいますか、失業率の高さといいますか、そういったものがありまして、政策的にボランティアを使わなかったといった経緯もございます。ですから、個々でボランティアが担うべきところにつきまして、案内だとか介護サービスにつきましてはすべて有償の、いわゆる雇いの職員がすべて対応しました。これによりましてある意味経済効果といいますか、就業率が高まったといったことも事実でございますので、ハノーバー自身については2005年と比較するのは非常に難しいんですけれども、ボランティアはなかったといったことが1つ、ご紹介としてここでご報告させていただきますけれども、どういった参加があるのかなというふうに非常に僕も悩んでいます。 しかしながら、もしかして2005年の博覧会がなければといった仮定をしますと、実はこのシンポジウムも開催されなかったと思っています。このシンポジウムに皆様がここにご参加いただいているのも1つの市民参加のあり方だと思ってますし、僕がきょう一言ここでいろんなお話をさせてもらって、もしかしたら吉見さん、ならびに皆さんの耳に入って、僕の意見がたとえば協会に届くとかといったことがあれば、1つの参加でもあるのかなと思っていますので、先ほどの吉見さんの言葉をお借りするとすれば、博覧会はもう既に始まっているといったご発言がありましたけれども、もう既に市民参加は始まっているんだと私は言いたいんでございますけれども、非常に悩ましいところがございます。 先ほどちょっと学長さんが、瀬戸市の市民は何を望んでいるのかと言われましたけれども、実際に「やってほしい」とか「開催される」といった、どちらかというと他人事というか、開催は博覧会協会、国、県がやるものだといった当初のご意向から、会場が小さくなるにつれて、僕はいい意味だと思ってますけれども、市民が何をしていこうかといった市民の自立が芽生えてきたのは事実だと思います。僕らが何かやらなきゃとか、あとそれにともなう市民団体の活動が、ある意味で活発化してきたのも事実でございます。きょう私の左手に座っていただいております長江有祐さんの団体も、まさしく博覧会をきっかけにまちづくりを進めていこうといって立ち上がった団体でございます。こういった意味では、市民参加が非常に進んできているのかなと思っております。とは言いながらも、やっぱり瀬戸市の市民にとって、また産業界の人にとって、博覧会をきっかけに、やはり地域経済が活発化したりとか、道路基盤が非常に整備されたりといった、これははっきり20世紀型なのかもしれませんが、こういったことを希望する方が大変多くいらっしゃることは事実でございます。 しかしながら、博覧会をきっかけに、瀬戸市に何が残ったか、市民参加、何が残ったかということを見ますと、市民の自立を非常に僕は期待をしているものでございます。僕が期待しているというと非常に高い位置からしゃべっているように聞こえて、まことに申しわけないんですけれども、市民参加、市民団体が、どう今後自己責任を持って活動していくかという非常にいいきっかけだと思っております。これが、もしかしたら市民団体のなかから起業化し、NPOとしてきちんと活動されたりといったことも1つの契機だと思っております。 ある一方で、私が博覧会に期待することというと、市民参加とは話が少しずれてしまいますけれども、ハノーバー博覧会自体も173の参加国がございました。本当にいろんな国々から参加していましたが、たとえば皆さんのこのなかで、100カ国以上の国の名前が言える人がどれだけいるのかといったことをちょっとご質問させていただこうかなと思ってますけれども、たぶん言えても頭に浮かぶ国の数というのは20〜30が限界なのかなと思っています。160も70も参加していただけるということは、非常に僕にとって瀬戸市が国際化につながるいいきっかけだと思っております。1日1カ国の参加国、たとえばフランスだとかアメリカだとかに来ていただいて国際交流事業を起こせば、毎日やっても160日、170日かかるぐらい大きな市民参加交流・国際理解の事業ができると思っています。たとえばその方がまた瀬戸市に来てもらって、買い物をしてもらって、茶わん1個を買って自国に帰ってもらえば、瀬戸市の茶わんが160〜170の国々に広がるといったことも考えられます。こうしたことが、瀬戸市の国際的なPRに非常につながると思っています。 そういうことで、市民参加、会場内への参画、あるいはた計画された参画といったことだけではなくて、自然なかたちでの国際交流、また瀬戸市のPRといったことが、これをきっかけに市民のなかから広がっていくことが望まれるのかなというふうに思っております。ハノーバーでも、市内の恵まれない子供を集めるような施設の開所式で、ぜひ日本館からごあいさつくださいということがございました。たぶん小さな子供たちにとっては、日本人とふれ合う初めての機会になったのだと思います。そして、せっかく来ていただいた方々を、いかに瀬戸市内に呼び込むかということも、市民参加や国際交流のあり方を考えるなかで、うまく考えていければいいかなと思っています。あまり長くしゃべると続きがつながりませんので、一端ここで切らせていただきたいと思います。 ○司会 ありがとうございました。コメントは後にしまして、とりあえず次へということで、実際に、市民の立場でいろんな活動をなさってこられ、またその代表世話人を務めておられる長江有祐さんから一言いただけますか。時間は自由ですから、どんどんしゃべっていただいて結構です。 ○長江 未来創造の長江でございます。今、いろんな活動をしているというご紹介なんですが、私ども3つのグループに分かれておりまして、まず1つは瀬戸の特性といいますか、このまち一番の特色である焼きもの文化を、まちづくりに生かしていこうというグループが1つ。それからあと環境共生グループ、これも今回の万博のテーマでもあるんですけれども、環境万博に向けて、市民の意識を高めながら、環境と共生していく実際の活動、具体的に言いますと、花いっぱいのまちづくり運動ということで、きょうもこの会場の外壁がそのグループの皆さんが飾りつけをしました花で飾られておるわけなんですけれども、この花も一般の家庭から出る生ごみを堆肥にして、それで育てた花を毎日水をやったり、あるいは雑草を取ったりとか、そういった本当に手づくりの地道な手弁当の運動をしているグループがございます。 それからもう1つ、地域ネットというグループがございまして、これは市内各地でいろいろなまちづくりの活動をしてみえる団体との共同作業といいますか、そういったことで一緒に取り組めることがあればというようなことのアンテナを張りめぐらせて、いろんな団体との交流をしてまちづくりに結びつけていこうという、この3つのグループが活動をしておる団体でございます。 われわれ3つのグループそれぞれに、市民の方、主婦の方、あるいは企業市民の方ですとか、いろんな方が参加して、それぞれの意見を持ち寄りまして、本当に手弁当の活動をしておるわけですが、そのなかでこのEXPOに向けて、過去取り組んできた事業というものは、1つには先ほど申し上げました環境と共生をしていく活動、もう1つがこれは具体的に言いますと、中心市街地を1つのフィールドといたしまして、瀬戸市も今進めてみえるフィールドミュージアム構想を、実際に生活者の立場でもって実践していこうという運動を今やっております。過去2回おこないまして、それぞれ市民の皆さんのご協力をえまして、非常に大きな成果を上げながら、これをさらに進めていって、EXPOに向けてまちづくりに生かしていこうということをやっております。 具体的にどんなことかと言いますと、やはり先ほどのハノーバーの紹介を見ておりますして、私、ハノーバーは残念ながら行けなかったんですが、博覧会へ行かれた方がどういうパターンで行動されるのかというのを知りたいですね。後で、長谷川さんにもお聞きしたいんですが、万博をめざして来られた方は、当然、まず博覧会という既成の会場に行かれる。その方々が、要するにたとえばどこかの神社へ行って、その門前町をお参りした後に寄るのが楽しみで来るというようなもので、きっと瀬戸というのはどんなところだろうということで、瀬戸のまちも楽しみにして来られる方も何人かおられるんじゃないかという気がしております。そうしたときに、瀬戸市に、そういう皆様がお見えになって、一体どこをごらんになられて、どういう感じをえられるだろうと思ったときに、残念ながら、なかなかわれわれも胸を張ってぜひここへというところが、今、ないような気がしました。そういうのがきっかけで、ぜひ瀬戸の中心市街地、ここにはわれわれ市民もなかなか接することがないんですが、すばらしい観光資源、あるいはいろんなものがあるわけなんです。それを生かしたまちづくりを、EXPOの開催まで何とか市民の手でやれる部分はやっていければ、きっとEXPOに来ていただいた方をお迎えして楽しんでいただけるところがあるんじゃないかと思います。そういうことでやっているのが、「夢や」という活動です。 瀬戸というのは、ご承知のように鉱山があって、すばらしい地下資源があって、それで焼きもの産業が発展してきた。燃料になる材木も海上の森で昔は取っていたというようなことで、非常に環境とも密接に結びつきながら産業が発達してきたまちです。そのまちが、実は、中心市街地に非常に凝縮していて、鉱山で土を掘ってきて、製品をつくるまでの過程が、瀬戸のなかで分業システムで成り立っているものですから、そういうところもごらんいただきながら、瀬戸は、こういうかたちでまちが成り立っているんですよというようなことを知っていただきたいと思います。この間、一般の方にもまちのなかでいろいろご経験いただいきたいですね。 来ていただいた方に見ていただいて、瀬戸というのは、こういうすばらしいところがあるんだというようなことを感じていただけるようなまちづくりを、ハノーバーのようなワールトワイド・プロジェクトでもいいですし、会場の外で博覧会テーマを継続的に実践する第一歩をやっていこうかなあと自分としては感じました。また、そういうことをやりながら、ともかく瀬戸に住んでいる市民の皆さんが、瀬戸のまちに誇りを持って皆さんに来ていただけるような、そういうマインドの流れを起こすっていうんですか、そういうことに取り組んでいきたいなあと考えております。以上です。 ○司会 ありがとうございました。今のお二人のお話を聞きながら、少し考えておりましが、最近、瀬戸市長さんが、しきりに「おもてなしをするんだ」という言い方をなさるんですね。博覧会にやってきた人をもてなすというよりは、博覧会にやってきた人たちのなかで、瀬戸に流れ込んできた人をもてなす、ないしは流れ込む仕組みをつくっていこうというようなことだろうと思います。どうも「市民参加」ということが、どんどん言葉としては大きくなりつつあるんですけれども、こと博覧会に関して言いますと、博覧会会場の外で何かいろんなことをやる、あるいはそれにかかわっていくという方向にすごく流れていて、博覧会そのものにどうかかわるかという話が、割合、最近すっ飛んでしまっておりまして、そのあたりが私にはとても気になるところです。 実は、去年の今ごろでしたか、私どもの研究グループで、瀬戸商工会議所の会員の方に対してアンケート調査をやりまして、どんなことに期待しているんだろう、どんなふうにやりたいと思っているんだろうという話を聞いたことがございます。私は、経済学者でないのでその結果は忘れてしまいましたけれども、小林さん、そのあたりちょっと覚えていたら少し教えてもらって、瀬戸の人たちが何を考えていたかというのを思い出させていただきたいのですが、よろしいでしょうか。 ○小林 商工会議所の会員の方ばかりでしたので、経済や経営のお話が多かったんですが、回収率があまりよくなかったものですから、なかなかうかがい知れないところもあります。ちょうど1年ぐらい前の時期だったものですから、特に瀬戸の方々にとってみると、期待が大きかっただけに、こういうふうになってしまったことに対する失望感みたいなところが大きいのと、しかしそれぞれの回答のなかよく見ていきますと、経営者を中心にした人たちの意識の高さといいますか、そういうところの両方が読み取れたんじゃないかなというふうに思っています。 今、3人の方々のお話を聞いていて、思ったことがありまして、アンケート調査を読んでいても思ったんですが、市民参加、地域、それから万博ということを考えていきますと、私は、「やわらかい」市民参加と「かたい」市民参加の両方が必要で、うまくかみ合わせることが大切なんじゃないかなというふうに思っているわけです。たとえば、吉見先生とか私が、ここで市民参加、市民参加とばかり言っていると、市民の方はどんどん離れていくということは当然あるんですね。かたく見えると。しかし、やはり万博をやるかぎりはテーマに近くて、やっぱりかたい市民参加というのがどうしても必要なわけです。一生懸命考える。あるいは無償でボランティアとして会場のなかで手助けをするという、そういうのを「かたい」市民参加だと、私は思っています。 「やわらかい」市民参加というのは、何か万博に引っかけて一もうけしてやろうとか、正直言いまして、ワールトワイド・プロジェクトのなかにもそういう意識を持った人も入り込んでいたんじゃないかなというふうに思うんですが、何か日本ではどうも市民参加で金もうけしてはよくない、市民参加は神聖なものだというふうに考えるきらいがあるわけです。それだけ成熟してないんだと思います。もちろん、私も、市民参加で金もうけするのはよくないとは思いますが、でもNPOなどはまさにそうですけれども、それは一定の経済的な活動の基盤がなければ、社会的な活動はできないわけでして、そういうお金もうけと言わないまでも、そういう意識といいますか、あるいはもう少し関連したイベントとか、そういうやわらかい、近づきやすい市民参加というのも必要だろうというふうに思っています。先ほど、長江さんのお話を聞いていますと、そこのバランスが非常にいいから、たぶん活動してうまく市民の方もかみ合って、なおかつこの地域のなかで大きな力になっていっているんだと思うんですね。そういうものをもっともっと増やしていくということが重要なんじゃないかなと思っています。 それからもう1つは、アンケート調査の結果も踏まえつつ、そして今回のこういうかたちになって思うんですが、長久手の方がおられたら非常に申し訳ないわけないんですが、けれども、瀬戸の立場に立ってお話しさせていただきますと、「市民参加の環境万博」だからこそ、瀬戸で開かれなくてよかったと。市民参加というのはアクセスの仕方によってはいろんなかかわり方ができるわけで、別に瀬戸に中心の会場がなくても、いくらでもかかわり方はある。しかも、瀬戸の環境はそれほど破壊されない。これはよかったんじゃないかと。もっとも近くで開かれるわけだから、悪く言うと利用してやって、いろんなかたちのまちおこしとか地域づくりに使っていけばいいというような視点で、正直言いましてこれだけの思いをさせられたわけですから、それぐらいのことを言ってもいいんじゃないかなというふうに、私は常々思っています。そういう気持ちの切りかえというのは、やはりここ半年ないし1年でやっていかないと、今求められている市民参加にしても、地域のかかわりにしても、ハノーバーと比べますと少し遅れているような、もうあまり時間が残されていませんので、そういったところの機運をもっと高めていく必要があるのではないかと思っております。 ○司会 ありがとうございます。市民参加というのは、今回の博覧会の非常に重要なキーワード、キーポイントになるわけですけれども、先ほどちらっと私申しましたように、市民参加がどんどん会場の外の方に展開されていく。会場のなかだけでは完結しないのだというのは、当然のことだろうと思います。それは、新しいタイプの博覧会のあり方として、つまり国家や企業やそういったある意志をもった組織体が、だれかに見せてやろうという博覧会ではないのだとすれば、あるいは意識共有型の博覧会だとすれば、会場のなかにとどまらない。会場というのは、BIEという頭のかたい組織がまだありますから、ある一定の線を引っ張って、ここが会場だよと言わないと国際博覧会として認定してもらえないというだけの意味でありまして、外へ向かってどんどん広がっていくのはいいのですけれども、だからといって会場のなかのことは博覧会協会にお任せして、あるいは県や国にお任せして、そこはそこでパビリオンがありイベントがあり、それとは別個に外でもって博覧会関連イベント、ないしはよく言えばサテライト会場などというようなものができ上がっていく。それをもって市民参加の1つのかたちだというふうに言うとすれば、先ほど吉見さんがおっしゃっていたこととは全然違う市民参加ではないかというふうに私は思います。吉見さんどうでしょう。 ○吉見 今、木村先生おっしゃっていただいたとおりなんですけれども、それに関連して4点ほど先ほどからちょっと申し上げたいなと思ったことがあるので、かいつまんで話させていただきます。 今、市民参加というのがテーマになってますが、そうだとすると、まず第一に、「市民とはだれか」ということがあるんです。みんなが市民参加、市民参加と言いながら、全然違う市民を思い描きながら何となく市民参加という言葉で一致しているだけなのかもしれない。実際には、具体的には市民という抽象的な存在がいるわけではなくて、一人一人のそれはたとえば行政の枠組のなかで仕事をされている方だとか、地域の環境運動をやっている女性の方だとか男性の方だとか、あるいはまちづくりの運動をやっている方だとか、そういう具体的な個人がいるわけで、だけど市民というふうにとりあえずくくっている。これは市民とは何なのか、だれかというのは、本当はちゃんと議論しないといけないんですね。 差し当たりそれについて私が思っていることを言わせていただけると、「市民」というふうに言うときには、われわれはどこかでそれは市民との対立概念みたいなことでいうと、「国民」とは言わないんです。つまり「国民」と言ったときには国家に対応しているわけで、「国家対国民」という1つのペアがあるわけです。それとは何か違うものを考えている。それから、「社員」とも言わないですね。「社員」と言ったときには「企業対社員」というのがあって、このペアをなしている。もう1つ言うと、「住民と市民」というときの微妙な違いもたぶんあって、「住民」と言わずにむしろ「市民」と言うときには、地域のなかなんだけれども、地域を何か越えるというふうなニュアンスも含んでいるんだと思います。では「市民」と言ったときに、もう1つ「市民」と対応するものは、つまり組織レベルというか、集合体のレベルで「市民」と対応するものは一体何だろうかといと、これはまだ見えてないんです。かつてだったならば、例えば1950年代と60年代だったら「市民社会」ということになったんでしょうけれども、この「市民社会」というのとは、たぶん今、「市民」と言ってるのとは、要するに60年安保とか、あのころの「市民社会」・「市民」というふうな対応関係で言われている「市民」と、今、「市民」と言われているのとはちょっと違うんだと思うんです。そうすると、この「市民」に対応するものは何かということを構想していく。市民自体が、そのなかで構想されていくというような、ちょっとうまく言えないんですけれども、何かあるんだと思います。 それからもう1つなんですけれども、先ほどの小林先生が、「かたい市民参加」「やわらかい市民参加」と非常におもしろい言葉を出してくださったんですけれども、ただちょっと、ひょっとしたら誤解があるのかもしれないんですけれども、私が先ほど強調したのは、小林先生のカテゴリーでいうと、むしろ「やわらかい市民参加」なんです。むしろ、私は先ほどのカテゴリーでいうと、「かたい市民参加」ということに対してはどちらかというとネガティブです。 どういうことを言いたいかというと、EXPOのために何かしましょうという市民参加は、私はよくないと思います。それは私の個人的な意見としてはしてほしくないというか、それは、結局、EXPOのために動員されるということに非常になりかねない面を、いろいろ批判を受けるかもしれませんが、あえて言わせていただければ持っていると思います。私が市民参加ということでむしろ言いたいのは、EXPOを使って何か別のことをやってやろうと。要するに、もっと言えばEXPOを使って社会を変えていこうと、新しい社会を構成をしていこうと。私たちの生きる環境とか、瀬戸の地域をEXPOをどう使いこなしてというか、あるいはうまくいいとこ取りでもいいし、そのために枠組を、だからそのためにEXPOの枠組だって変えていっちゃっていいし、何もEXPOは全然目的ではありえないというふうに私は思っています。だから、参加というのはそういうかたちでむしろ考えるべきだというふうに思っています。 それから、ちょっと急いで言いますと、3番目の話で、会場のなかで市民参加というのが、先ほど木村先生の問題提起で、どうも置き去りにされちゃっているんじゃないかということなんですけれども、これは、木村先生や谷岡さんやほかの方たちが十分ずっと議論してやられていることだと思います。だから蛇足になるかもしれませんけれども、一言そこで言えば、会場のなかに市民参加という問題を入れていくためには、差し当たり20世紀型の、旧来の博覧会の枠組のなかで、会場のなかを支配しているのは国家と企業なわけです。だから国家と企業とどう取引するかというか、国家と企業が既得権で握ってしまっているものをどう壊していくか、壊していって、そこに国家や企業の権利意識を変えていくというか、そこの問題に手をつけないと、会場のなかに入っていくために企業と国家とどう折り合いをつけるかということの議論になってくるんだと思います。 それから最後にちょっと一言つけ加えるかたちで言うと、僕は、東京の人間だからこういう発想をするのかもしれないんですけれども、あえて言わせていただければ、たぶん長久手もそうですけれども、瀬戸の市民参加、あるいは瀬戸の地域の市民参加というものが、すごく生き生きと生きていくためにはどこかで、たとえば、アジアのほかの国にも市民はいるわけですよね。タイにもいるし、ベトナムにもいるし、中国にもいるし、韓国にもいるし、それからラテンアメリカにもいるわけです。そのいろんな結びつきというのは、今可能になってきているし、その結びつきのなかで、市民あるいは市民に対応する社会のありようというのがあるんだと思うんです。 言葉足らずで言いますけれども、かつての万博の前に確かに世界中からいろんなお客さんが来た。世界中からお客さんが来て、もてなしをして、いろんな交流は確かにあった。だけど、どちらかというとそのときのグローバルなものと、地域の市民のかかわり合いというのは、ゲスト=ホスト関係ということもありますけれども、何か同じ1つの未来というか、同じ夢をみんなで見ましょうみたいな感じだったと思うんです。でも、今、地域の市民とグローバルないろんなかかわり合いというときに考えなくちゃならないのは、みんな見ている夢、あるいは記憶というふうに僕はむしろ本当は言いたいんですけれども、そういう記憶や夢というのは違うんです。違ってよくて、違ったものがどういうふうに対話していけるかということを考えることが、とっても大切なことなんだというふうに思っています。 ○司会 ありがとうございます。「市民とはだれか」というのは本当にわかりにくいことで、私は愛知万博検討会議の委員でもありましたし、今たとえば瀬戸でいいますと駅前ビルをどうしようかというワーキンググループの委員でもありますし、県でいいますとこれからつくられようとする海上の森をどうしようかという検討会議の準備会委員もやっている。どの委員会へ行っても、困ったことにと言ってはいけませんが、いいことに傍聴者がみんないるようなシステムにだんだん変わってまいりまして、会合が終わったら傍聴者が必ずやってきて、「先生は本当に市民の代表ですか」とこうお尋ねになる。だれに認知されたら市民の代表といっていいのか、実はよくわからない。「たぶん、ないですかね」としか今のところ言えないんだけれども、そういうことで、割合、無原則に「市民」あるいは「市民代表」「市民参加」という言葉が使われている。 もっとびっくりしたのは、愛知万博検討会議がこの前一応閉じられましたけれども、そのときに「市民参加をこれから考え続けるような、自由に参加できるものをつくりましょうよ」と言ったら、一番市民参加や情報公開にこだわっていらっしゃった委員のお一人が「私も行ってもいいですかね」とおっしゃって、「こいつ、わかってないな」と思いましたけれども。つまりある限定性を持って市民として参加できるかできないかということを自己規制する人もいれば、あるいは非常に無定見に市民というものをとらえる人がいる。そのところが実はよくわからないので、きょうは、吉見さんに後でもう少し教えてもらおうと思っているんですけれども、実は市民が自覚的にとか、市民が自立してというときに、さて市民って一体何なんだろうということがよくわからないままに統合されていく。その統合されていくというのは、ひょっとしたら、昔、国家がコントロールしたのとあまり違わないんじゃないか。市民という名においてコントロールされているのではないかというふうに思えて、時々不安になるんですけれども、そういう市民がどういう参加の仕方をするということを、瀬戸市や瀬戸地区協議会は期待されているのかなというあたりを、もう一回長谷川さんにお尋ねしたいと思います。長谷川さんは市民だけれども、市民が集まった組織というかたちの市民を束ねる組織にいらっしゃる。そのあたりのところで何かお考えがあったら少し教えていただきたいなと思います。 ○長谷川 非常に難しい質問で、まことに答えにくいところなんですが、私どもの協議会というよりも、私の個人的な意見になると思います。「市民参加」という言葉について、僕は実は非常に嫌いなんです。「参加」なんですね、どうしても。「参加」なのが「市民」なのかとか、「参加」というと、何かどうしてもいまだに言葉のうえで「あるものに参加していく」というふうにしか理解できなくて。私は、「市民」というのは主体的に行動して、自己責任をもって活動していくのが「市民」であり、また「市民団体」であるというふうに理解をしております。 当協議会も市民団体さん、また企業さん、市民が主体的にやられるようなものについては積極的に支援したり、またそれらを連携して何かを事業していきたいという思いで活動しているわけですけれども、やはり「参加」という言葉が、僕は非常に嫌いなのでして、「市民」という言葉をどう束ねていくのかというのは非常に難しいと思いますが、個人的には「市民団体」・「市民」というのは主体的に物事を考え、活動し、自己責任をもつということが望ましいと。私は、望ましいというか、こういうふうであるべきだというふうに思っています。すみません。少し抽象的な回答でまことに申し訳なかったですけれども。 ○司会 ありがとうございます。「市民参加」の「市民」と「参加」の間にどういう助詞を入れるかによってずいぶん違ってくる。「市民として参加する」とか、「市民の立場で参加する」とかいろいろあるんだろうと思います。 私も「参加」ということはあまり好きじゃなくて、「参加」ではなくて、「市民がつくる」と言うべきなんだろうなというふうに思うんです。思うんですけれども、「市民がつくる」というのは非常に抽象的でして、具体的なターゲットが、たとえば愛知万博とかというふうにあるときに、何をやってもいいよというときには市民がどうつくって、何をつくってもいいんだけれども、ある1つの目標値があるときに、それに向かってというふうになりますと、やっぱり「参加」という言葉を使わざるをえないかなと思ったりするんです。 長江さんたちは、愛知万博を機に組織化、制度化されてきたんだろうと思いますが、しかしでき上がったものに参加しようということではどうもなかったようで、始めから、つまり愛知万博はどんなものになるかまだよくわからない段階からかかわっていらっしゃる、これはまさに市民がつくっていくアクションそのものだったと思うんですけれども、そのあたりのところ少し歴史も踏まえてお教えいただけると、もう少し話がわかるかなと思うんですが。 ○長江 おっしゃるとおりです。組織されましたのが、BIEが日本に調査に来た直前です。要するに瀬戸の市民、今の定義がなかなかよくわかりませんでしたが、瀬戸の本当に純粋な気持ちでもって万博の開催を望むみんなが集まれということで、企業市民も、主婦の方も、あるいは行政マンも、本当にいろんな方が集まってこられたわけです。 それでBIEをお迎えするにあたって、やっぱり市民の熱意を示さなければいけないというところから、われわれができることは何があるんだろうということで、先ほど言いました3つのグループを、その当時まだはっきりとはイメージができてなかったんですけれども、ともかく瀬戸のいいところ、これからわれわれ市民が取り組んで伸ばしていきたいところはどんなところだろうということで、まず1つは世界に誇れる焼きもの文化があるじゃないかということで、「やきもの文化グループ]をつくり、それから環境をテーマにした万博であるならば、これは主婦の皆さんが主体となって、実際の生活のなかでできることから取り組んでいくグループとして、「環境共生グループ]というのをつくろうと。それともう1つ、地域ネットグループというのも、賛成というか反対というか、よく万博そのものがわかっていらっしゃらない、そんななかで、万博へ向けたまちづくりというのは一体どんなことがあるだろうというようなことを広く皆さんから意見をいただいて、またそれを発信していけるグループとして、「地域ネットグループ]というのをつくろうということで、その3つのグループに分かれていって、それぞれが万博を迎えるまちとしてふさわしいまちづくりをしていくためには、どんな活動をしていったらいいんだろうかということで、ずっと過去5年間取り組んできたわけです。 そこで、先ほどの議論のなかで、これから万博にどうやってわれわれが取り組んでいったらいいのかなということで、その3つのグループがそれぞれの思いをぶつけていくのももちろん必要なんですけれども、今、特にこの平成13年に入ってからのわれわれの方針というのは、ここはやっぱりそれぞれ3つのよさを生かしながら、もう一回1つにまとまって、それで市民の力を結集して、また次のステップへいこうと。 先ほどの話でいきますと、そういう市民活動をやっているところがだんだん増えてきているものですから、そういったところをあまり一くくりにするというのもよくないのかもしれないんですけれども、たとえば万博へ向けた市民実行委員会みたいな、そういったものがもしつくれるならばつくる。これは、どこに対して要望していっていいのかまだ全然よくわからないんですけれども、たとえばその市民グループで、それはもう瀬戸市だけに限らず、こういったことを万博のなかでやっていきたいということが要望できるような、そういう流れができれば、われわれも活動してきていろいろと感じてきたこと、経験してきたことを万博のなかへぶつけていきたいんだけれども、その手段がよくわからない。ですから先ほどのような少し一歩ひいたかたちに思われがちな会場の外での市民参加というかたちで、今ちょっとわれわれグループも少しもやもやしたところがあります。市民の活動が本当に万博の会場内に反映できるような、そういった風通しのいい組織ができたらいいなというふうに思いながら、今後の活動を考えていきたいと思っているんですけれども。 ○司会 ありがとうございます。私がどうも博覧会の周辺でというふうに強調し過ぎたのかもしれませんけれども、博覧会そのものに対していろんなアクションを起こしたい市民ってたくさんいらっしゃるはずなんです。あるいは具体的な提案をなさっているところもあるんでしょうけれども、そのあたりがどうも先ほど吉見さんがおっしゃった、会場のなかを支配している20世紀型の仕組みというか、端的に言うと国であったり企業だったりするんでしょうけれども、そういうものをどうすればいいのか。吉見さんは学者だからどうすればいいのかという問いかけでいいのかもしれないけれども、どうすればいいと本当は思っていらっしゃるか、もう少し吉見さん、おっしゃっていただけるとありがたいんですが。それは、みんなが解決することなのかもしれませんけれども、現実にそういう仕組みがあって、今、長江さんがおっしゃったように、みんな入り口のところでとまっちゃっているわけですよね。そのドアをけっ飛ばすか、ベルリンの壁か何かをぶち壊すようなアクションというのはどうなんでしょう。どこから起こしていくんでしょう。おまえがやれとおっしゃればそうかもしれないけれども。 ○吉見 どこから起こってくるかということについて言えば、まさに今起こすポジションというか位置にいらっしゃるのは谷岡さんや木村さんだというふうに思いますけれども、それはともかくとして、逃げているみたいで、後で怒られちゃいそうで。外側に立って、評論家はだから困ると言われちゃいそうですが、ただ、どうすればいいかということは、会場のなかということにまず限定して言うと、この前、協会のなかの市民参加研究会でもいろいろ議論したわけです。当たり前なことしか今言えないのかもしれないんですけれども、一気に博覧会が市民だけで全部運営できるわけではないわけです。やっぱり企業の力とか、国家の力とか、それから行政、自治体の力というのは大変大きなものがあるわけです。それは、たとえば、企業はお金を持っているわけです。それから行政とか自治体はいろんな人的な仕組みとか、お金も多少あるでしょうけれども、そういうものがあるわけですが、そうするとそういうふうな国家や、ある意味では虫のいい話かもしれないけれども、企業が持っている資本とかお金とか、国家が持っているいろんな人的な仕組み、そういうものを、見かけ上どうということは問いませんけれども、実質的にむしろ市民運動的なというか、市民参加というのをもうちょっと強く言えば市民運動ということになるんでしょうが、その市民運動的なものの方に代替していくというか、置換していくというか、組み込んでいくというか、そういう制度的な仕組みをどう設計するかということなんじゃないかという気はしているんです。その制度的な設計というものをして、それをきちんと権威づけるというか、オーソライズすることが、協会がきちんと本気になってやれば、僕はある程度はできるはずだと思うんです。また、その協会をそういう気にさせる必要はもちろんあるんだと思いますが。 ○司会 ありがとうございます。僕はもちろん博覧会協会が仕切っていかなければ会場なんかはやっていけないんだけれども、このごろ時々言っているのは、小さい国家を目指すのと同じように、小さな協会、小さな主催者、小さな事業主体になっていかなければ、実質的にはなかでの市民参加というのは実現しえないんだろうというふうに思っているんです。じゃあ、どうすれば小さな市民参加型の事業主体になれるのかというところがまだよくわからない。 きのう実は、「通産省というのは経済産業省に変わりました」というお手紙を省からいただいて、あけてみますと博覧会の組織図が書いてありまして、その下に「国家事業愛知万博を成功させましょう」だったかと書いてあって仰天したんです。やっぱり国家事業だと思っているな、この方々は。それはやっぱり抜きがたくあるんですね。それはもちろん登録申請の段階でいろいろな発言のなかでも出てきましたけれども、そういうことがあれば、やっぱり事業主体そのものを何とか小さくしていくというか、事業主体そのものにそんなに責任ないんだよといって、みんなで肩がわりしてあげられるような市民社会にこちらの側がなってなきゃいけないというような気がします。非常に抽象的なことですが。 ただ現実問題として、小林先生、たとえばハノーバーだったら、会場の外と中というのはどういう関係になっていたのか、もう一回おさらいで教えていただきたいのですが。 ○小林 私が一番最初に報告のところで会場の中と外という設定の仕方をしたものですから、そういう話にもなっているのかもしれないですけれども、私は先ほどの吉見先生がおっしゃったように、特に市民参加に関して言えば、仕組みさえつくればあまり会場の中と外をそう意識する必要はないのかなという気はします。 よく覚えていますのは、ハノーバーの会場の中にグローバルハウスというのがありまして、それはワールトワイド・プロジェクトを見せるためのパビリオンといいますか、情報発信基地みたいなところだったんですけれども、ずっといろんな国のパビリオンを見まして、飽きて、長谷川さんに紹介していただいていたものですから、そこに入ったら割と温かくて、何となく落ち着いたんですね。それはほかのパビリオンにはなかった、何かおそらく温かさというのがあった。何もなかったんですよ、本当は。ほかのパビリオンに比べますと何もなくて、ただそういうワールドワイド・プロジェクトの説明をするちょっとした事例とか、そういう資料とかいろいろあって、事務所にもなっているわけですけれども、そうしたものがあって、それをぐるぐる回っていただけなんですけれども、でも何か会場のなかは少し温かい空間だったんです。それはすごくよく覚えていまして、それはおそらく会場外でワールトワイド・プロジェクトという広がりがあったからこそ、会場の中でそういう雰囲気が出せたんだと思うんです。だからそういう意味では、市民参加に関して言えば、そういうかたちで、あまり意識的に会場の外と中というのは、もちろん当然物理的にあるわけですから重要でしょうけれども、仕組みさえちゃんとうまくつくれば、うまくいくのかなという気はします。 それから、先ほど言われていた国家事業なのかという話でいきますと、たとえばハノーバー博覧会が、博覧会としてではなくという言い方を私はしましたけれども、1つの事業として成功した理由というのは、やはり最初に吉見さんがおっしゃいましたけれども、ドイツの経済社会システムが大きく変わる、それを上手に映した鏡としてあったというところがあると思うんです。ドイツは、日本と同じように比較的官僚の強いところで、国家主義的な運営をしてきたわけです。本来、地方分権がずいぶん進んでいたわけですけれども、それが規制緩和とか民営化とか、経済社会の姿が大きく変わってきたんです。最初、日本のJRができたときに、ドイツから見学に来まして、一生懸命勉強して帰ったんですけれども、どうも今の様子は、規制緩和や民営化は、ドイツの方が先に進んでいまして、日本が勉強に行っているというような話も聞いたりしますけれども、それこそ1つの新しい経済社会の仕組みを一歩先取りしてうまく見せれば、そういう仕組みをつくれば可能なことではないのかなという気がしております。 ○司会 なるほど。やっぱり社会の仕組みそのものが変わっていくということが前提とならなければ、市民参加という言葉自体が不毛であるという感じに私には聞こえるのですが、長谷川さん、実際にハノーバーで半年間お暮らしになって、長谷川さんはずっと言わば中にいらっしゃったわけですよね。外と中というのは、どういうふうに感覚的に感じられたんでしょうか。 ○長谷川 中と外の市民参加といった観点でお話しさせてもらいますと、会場そのものというのは、実は当初計画していた会場より大きな変更がなされました。それは、地域住民が住む場所を買収するとか、森を少し買うといった部分につきましては、地域の住民の意見を聞いてとか、反対運動もあってということもあるでしょうけれども、会場が変更されたといったことは事実でございます。これも今回の愛知万博の会場が変わったことともしかしたら同様なのかなと、これは1つ市民参加といえば市民参加なのかもしれません。それをどうとらえるかは別として。 あとまた会場外の市民参加という観点でお話ししますと、先ほど紹介がありましたワールドワイド・プロジェクト、1つちょっと事例を紹介させていただきますと、実は博覧会場すぐ横のラーツェン市といったところになるんですけれども、そこに大きな公園ができておりました。この公園はラーツェン市がやった事業なんですけれども、これはワールドワイド・プロジェクトに選定された公園整備事業です。これは、非常に五感に訴える公園整備だったんですけれども、もともとそれはごみ処理場の跡というか、あそこはごみを焼きませんので、埋め立てした跡のところを公園化したんですけれども、その意味で環境という博覧会のテーマに合わせて公園整備がなされましたが、そこの運営のなかで、たとえば音楽祭があったりとかと、勉強会とか、子供の遠足があったり、そのなかの施設についてはボランティアで運営されていたということもあります。博覧会の中と外、さまざまな市民参加があったようです。 ちょっとまたまったく観点が違いますが、あるパビリオンの話をしますと、国によって、日本も最近増えてますけれども、学生さんがボランティアをすると単位が取れるといった制度があると思います。そういうのを十分に活用して、どこどこパビリオンの運営にボランティアとして当たったといった市民参加もあるでしょうし、日本館でいきますと、瀬戸のこまいぬ座の方々が太鼓をたたきに来て日本の文化を紹介していただいたり、またメサイア合唱団も来ていただきまして、博覧会のPRをしていただいた。こういうのも、もしかして小さな市民参加なのかもしれません。 ○司会 ありがとうございます。実は、博覧会の期間中に、たとえば私の大学の学生を博覧会会場に6カ月留学させようと。ちょうど時期が春学期、半年、ぴったり合うものですから留学させようと。そこでいろんなことを経験してもらって単位化しようなんてことをちらっと考えたりして、あっちこっち申し上げているんですけれども、実はこれは本当はボランティアを金で買うような話でありまして、本当はやっちゃいけない。やっちゃいけないんだけれども、何かそういう動機づけをして、どんどん参加してもらえれば、これはひょっとしてプラスかなと思いつつ、いいのかな悪いのかなと思いながらやっているんですけれども、そういういろんなかたちで市民参加というものが、時にはだしに使われたり、強制されたりすることがいっぱいあるわけです。 ただ私は、市民参加というのは、今、市民参加って何だといって議論しているけれども、実は非常に単純なことで、吉見さんが冒頭のお話のなかでされた、海上の森の価値を発見していくプロセスそのものが愛知万博をつくってきたし、変えてきたし、新しい世界をかいま見せてくれているんだというお話がございました。「博覧会は既に始まっている」と、これは僕も使ったことがある言葉ですけれども、いろんなところで語られている。いつ始まったんだというときに、海上の森に人々が関心を持ち始めた時点で、もう既にそれは僕は始まったんだと。ずっと時代をさかのぼらせていって、1980年代終わりぐらいですけれども、そのあたりからもう既に始まっている。そのあたりから実は意識が変わりつつある。だから21世紀型の社会のプロトタイプを導き出すような行動というものは、既に出てきていたのではないかというふうに思うんです。そのなかで、たとえば海上の森を見続けていた人たちのなかにもどんどんと考え方が変わっていったというんだけれども、僕は変わっていったと思わないんで、考え方がどんどん深まっていった人たちがいらっしゃると。 きょう、たまたまそのお一人が会場のなかにいらっしゃるので、ぜひこれは何かしゃべってもらおうと思います。先ほどの吉見さんの話のなかにも再三登場いたしました曽我部さんがそこにいらっしゃるので、市民参加を実践されたお一人というか、実践されつつあるというか、新しいスタイルを見せてくださっていると思うので、どうぞ一言刺激的なことをおっしゃっていただければと思います。 ○曽我部 曽我部と言います。たぶん今、木村さんとか吉見さんが、始まったのが海上に注目された時期とおっしゃったのは、たかだか主婦数人が始めたことが、すごく注目されたということなんですけれども、考えたら注目させたんじゃなくて、世の中がもうそうい時期に来ていたところにうまく乗ってしまったということの方が大きいのではないかと思います。それは私たちに力があったということではなくて、そういう時代が始まっていたところにたまたまいた。ということは、注目した人たちも既に同じような場所に立っていたということなのかなと、今聞いていて思いました。だから、そういう意味では、やっぱりそのときから2005年の新しい万博がスタートしていたんじゃないかなと思います。 私は大阪に1970年に住んでいて、腹が立ってただの一度も万博に行かなかった。それで18回も行った谷岡さんと知り合いになるとは夢にも思わなかった。ゼロよりも、行くんだったら18回行った方がいいのかもしれないんですけれども、でも全然違った人間じゃなくて、実は暮らしながら何か違うとか、こうしたいとか、こうあるべきじゃないかとか思っていたものが、やっぱり違ってはいなかったということなんだろうと思います。 それで、万博というものにもし何か力があるとしたら、全く質が違ったように一見見えた人間が、実は同じような夢を持っていたとか、それこそ同じような記憶に支えられていたとか、そういうことをどこかで出合わせてくれるものなのかなと。だから、もし市民参加というものが少しまともなものになるとしたら、今もっている市民の力が何ぼのもんやということでしかない。だからやってみせるしかない。だから、「こうだ、ああだ」って言っている前に「もうやろう」。やって見せておいて、これが市民参加で環境博なんですよということが、市民が見せられなかったら、それだけのものでしかないのかなと。だからやろうと思っています。 もうしょうがないです。ここまで来ちゃって、自分でピアノを背負ったのだから、もう背負うしかないのかなと。背負うんだったらもう楽しく背負いたいなというふうに思っています。この瀬戸に木村さんというおもしろい人がいらっしゃったというのも、また瀬戸市の救世主になられるんじゃないかなと思っておりますので、そういう意味での広がり方がこれから楽しみだなというふうに思っています。 ○司会 ありがとうございました。先ほど吉見さんが、これからの時代というのは違う夢とか違う記憶を持った人たちの連携なり、かかわり合いが大事だとおっしゃった。まさにひょっとしたら違うことを言っていたように見えた人たちが、同じことを考えていたんじゃないかというかたちで、市民社会に希望をつなごうとしていらっしゃる。まったく逆のことを言っていらっしゃるのに、まったく同じことになっているというので、非常におもしろいなと思って今聞かせていただきました。 瀬戸市というのは人の数ほど団体があるとは言いませんけれども、非常に小さな団体がいっぱいあって、それぞれ勝手にやってらっしゃって、お互いに連携をもたないという非常に特異的なところでございますけれども、そういうものを違うものだと言ってどんどん排除したり、だんだん小さな組織体に分裂していって、最後は一人になっちゃったとかいうんじゃなくて、やっぱり大きなかたちで統合していかなきゃいけない。統合というとまた何となくある1つのルールがあってというふうに見えちゃうんですけれども、そうじゃなくて、違う夢を同じ夢につなげていくような仕組みづくりがいるだろうなと。そういうのを見ていますと、長江さんたちのやっていらっしゃる「未来創造」の進み方というのは、とっても正しくやっているんじゃないかなというふうに思うんですけれども、もうあまり時間がありませんので、長江さん、一言。 ○長江 ありがとうございます。私たちも本当にそういう面では当初同じ目標をもって、同じ夢を見ながらというかたちで本当にやってきて、今もそれは続いていると思うんです。ここからさらに広げていくためには、いろんな切り口というんですか、たとえば今やっています中心市街地ですと、商店街を活性化させるというような大目標じゃなくて、商店街とその周辺の住民の方が、1つのコミュニティをつくっていただくためにわれわれが橋渡しをやっているというようなかたちで、切り口がいっぱいあります。たとえば、先ほどお話しが出ましたそちらにお見えの加藤さんがやってみえるような和太鼓を1つの切り口として、青少年がコミュニティをつくるというような、そういった地道な活動をしながら、この輪を広げていって、その力がまた万博へうまく向けられればというような気持ちで、これからも頑張ってやっていきたいと思います。きょうはありがとうございました。 ○司会 ありがとうございました。続きまして、いろんな市民をともかくひっくるめて何かやらなきゃしょうがないという立場の長谷川さん、どうぞ。 ○長谷川 ちょっと瀬戸市民がこれから目指すものというのか、市民参加というものの、瀬戸市で部分的には開催されるんですけれども、やはり「もてなしの気持ち」というは、先ほど学長さんの方から市長の言葉として紹介していただきましたけれども、それをひっくるめて、瀬戸市の人は皆6カ月間の博覧会を目指しているわけではないと思っています。それはやはり博覧会をきっかけにということを多分長江有祐さんもずっと言われてますけれども、やはりこれをきっかけにどう瀬戸市がいろんな国から来るお客様、いろんな都市から来るお客様をもてなすかということを考えていくべきだと思っていますし、先ほど冒頭にちょっと申し上げました、例えば国際化みたいなものも推進していきたいという人もいらっしゃいます。市民参加の「市民]という意識を高めたいという人もあれば、それをきっかけに、先ほどちょっと申し上げたコミュニティを少し広げていきたい、また瀬戸の文化を発信していきたいということに皆さん活動されているというふうに思っております。ですからやはり、連携ということを中心に当協議会も活動していきたいと思いますので、またご支援とご協力のほどお願いしたいと思っています。 最後にPRとなりますけれども、黄色いパンフレット、「市民参加型の博覧会を目指して」といったシンポジウムが、実は2月10日に開催されますので、第2弾というか第3弾といった感じでぜひご参加いただければ、また博覧会に向けて皆様のご参加をご期待したいと思っております。以上です。 ○司会 ありがとうございました。きょう冒頭の講演からずっとつき合ってくださっている小林さん、少しまとめてください。 ○小林 大学も1つの市民、あるいは市民団体だというふうに思っております。学生数5,000名おりますし、大学も一人の市民としてこれからかかわっていきたい。なおかつ、ただ社会に開かれた大学というんじゃなくて、社会をつくっていくといいますか、先ほどの市民参加、そういう多様な市民参加をうまく調整といいますか、動かしていくというようなことのお役に立てれば非常にうれしいというふうに感じております。どうもありがとうございました。 ○司会 ありがとうございます。吉見さんはちょっと置いておいて、フロアの方でもう少し「おれは何か言いたいよ」とか「私は何か言いたいよ」という方、いらっしゃいますか。どなたでも結構ですが。 ○会場 名古屋学院大学の小井川と申します。吉見先生、本日は雪のなかわざわざ瀬戸まで足をお運びいただき、ご苦労さまでした。ありがとうございます。私自身は、吉見先生の本を読んで万博のことを勉強したものですから、本日来ていただいて非常にうれしく、また光栄であります。 それで、市民参加というテーマでいくつか今議論されているので、私がちょっと疑問にといいますか、このあたりどうなっているのかという質問だと思うんですけれども、2点ばかりお聞かせ願えれば非常に幸いです。 1点目は確かにおっしゃられますとおり、国家主導といいますか、官主導の会場計画のなかから、そのイニシアチブをそれ以外のといいますか、市民の定義が問題ですけれども、われわれの手に取り戻したという点では、大きい21世紀型の万博の第一歩だと思うんですけれども、もう一歩進められませんか。それはどういうことかというと、結局、われわれがそういうかたちでイニシアチブをとって、会場計画を立てたとしても、結局、われわれは出し手なんです。来ていただく一人一人の来場者の方も市民なんです。そういう人たちからのフィードバックを受けて、たとえば万博がより実り多いものにできるような、何かいろんなメカニズムはないかなと、あるいはそういう話が今持ち上がっているのであればお聞かせ願いたいなというふうに思っております。 私自身も万博が大好きで、たとえば花博とかつくば博とか、基本的にはコンパニオンを見に行ってたんですけれども、いってパビリオンへ入るとそれこそいろんな展示を見せられて、「ああ、すごいね」で終わりだったんですね。それだけではちょっと心もとないんで、たとえばそれで感じたことですとか、あるいは思ったことを、何か今後の、たとえば技術なり何なりに生かせるようなかたちの市民参加があってもいいのではないかというふうに感じております。 それと「市民の定義は何か」という大きな問題提起をされましたけれども、これはお話をうかがって、やっぱりそうなのかなと思ったのは、どうも補集合なんですね。つまり国家とか、あるいはその国家を後ろ盾とした開発主義に毒されている企業というものがあって、それが今まで万博を推進してきた。ところが今回の万博については、あるいはハノーバーはどうか知りませんけれども、少しそれに対してくさびを打ち込んだという位置づけかと思うんです。実は、この「国家や企業対その他の人たち」という構図が崩れているのも21世紀なんじゃないかなという気がいたします。 それはどういうことかというと、いわば三すくみか四すくみかわかりませんが、国家と企業も今は利害が一致していません。企業はやりたいことがたくさんある。国家が縛りをかけている。国家はお金がない。企業もなかなか国家にはお金が出せない状態である。ですので、市民参加というとどうしても国家と企業を向こうに回して、国家は口を出すな、企業は金だけ出せという話になるかもしれませんが、特に今回のテーマの環境についていうと、技術がどこまで進んでいるか、それがわれわれどこまで手が届くようになるかという点で、企業の役割が重要だと思うんです。企業をいわば受け身的な第三者的なものに置かずに、積極的にこの万博にかかわってもらうには一体どういう方法があるか。それもだから1つの市民参加ではないかなというふうに思うんですが、あるいは「市民参加」という言葉がはばかられるようであれば、「全員参加」とか「平等参加」というかたちの言葉に置き直してもいいと思うんですけれども、その点について一体どのような話が進んでいるのか、極端な話、万博会場を1つの見本市みたいなかたちにして、トヨタとGMが環境自動車を並べて売り合ってもいいわけですよ。ここまで環境技術が進んでますよと。皆さん環境というものは非常に重要で、これだけ技術が進んで、しかもわれわれの手の届くところにあるんです。あるいはエコ住宅なんかも展示販売してもいいと思うんです。まあ、BIEの規制でそういうのが禁じられているのかもしれませんけれども、そういう点で、つまり市民のカテゴリーを少し広げてみて、万博に対する主体の関係を取り直してみると一体どういう形になっているのかという点でちょっとお話しをうかがえればというふうに思っております。長くなりました。すみません。 ○司会 ということで、質問が2つだと思うんですけれども、吉見さんに対する質問でしょう。それじゃ、わかりにくい質問にわかりやすくお答えいただけるかと思います。 ○吉見 ありがとうございます。大変優秀な学生の方がいて、すばらしいなと思いました。 ○司会 あれは学生じゃなくて助教授なんです。 ○吉見 大変失礼しました。ごめんなさい。ちょっと物すごい動揺しちゃって今、答えようと思ったことを忘れてしまったんですけれども。ちょっと赤面していますけれども、本当に失礼しました。 今2つのご質問で、第1のご質問なんですけれども、これは、ずいぶん前に同じようなことを議論したことが、実は別の場所であって、基本的に私が思うのは、それをどういうふうに実現していくかということが問題なんですけれども、やっぱり入場者という枠というか、概念を壊さないといけないんだと思うんです。つまり、それは端的に何人入場したから成功だとか失敗だというのは、経済的なことで確かに非常にあるんだけれども、しかし入場者という枠が厳然とあるかぎり、「入場者対主催側」という構造がどうしても残ってしまう。そうすると、どういうふうに経済的なことを担保しつつ、予算的なことを担保しつつ、どうそれを壊すかということが大切で、前に入場者というのをもっと壊して、たとえばそこに住まう人とか、それから別のワークショップへの参加者とか、いろんな、たぶん参加者についての別のカテゴリーが本当は立てられるんだろうと。別のカテゴリーを立てて、それが何か経済的な仕組みとうまく接合できたときに、何人入ったからどうということではなくなってくることがまず非常に今のご質問のことに関して言えば必要なんだと思います。 そういうことを私が言うと、協会の方たちは「それじゃ、何で博覧会の成功、不成功をはかるんですか。それがなくなっちゃうじゃないですか」というふうにしかられるんですけれども、しかし私は入場者とは別に、博覧会が成功した、不成功したということを評価する別の枠組というのが、ある種のエバリュエーションというか、アセスメントというか、それをどういうふうにつくるか、これはグローバルな問題です。ただBIEにそれをできるだけの能力が今あるかというと非常に問題で、ないと思いますけれども、しかし何かそういう成功、不成功を評価する尺度というか枠組、アセスメントするものが別に必要に当然なってくると思います。それとあわせて入場者というものを解体するということを、しかも経済的なものとうまく接合するというのは大変難しい問題ですけれども、そこが課題なんじゃないかというふうに非常に思います。 それからあとの市民での話で、「国家・企業と市民」という枠組が、全体が崩れてきているんではないかということは、まったくおっしゃるとおりで、私自身も市民というときに、つまりこれがさっきの、かつての60年代の「市民」・「市民社会」という概念と、今われわれが「市民」という言葉を使って何か求めようとしているものとが違うということとも重なるんです。60年安保のころだったならば「国家・企業対市民社会」という構図でよかったのかもしれないけれども、今、市民ということを言うときには、そのレベルの市民社会論ではないんだと思います。そうすると、その関係が非常に問題になってくるわけですけれども、ただ同時に私は「企業イコール市民」というふうになかなかなりえないのは、やっぱり公共性というか、パブリックという問題を、21世紀のグローバル社会のなかで僕らは非常に考えなくちゃならない。今までだったら国家がパブリックというものをある種独占していたというのか、国家が公だった部分があったと思うんです。でもそれは今これだけグローバル化し、そして企業と国家との関係も、企業は国家の外にどんどん出ていく状況のなかで崩れてきているとすると、そういうなかで、でもやっぱり企業のコマーシャリズムというものとは違う、パブリックというものをどういう場所につくり出していくのかということが問いなのであって、逆に言えば、博覧会というものが今価値があるとすれば、そのために博覧会をどう使っていくことができるかということなんじゃないかと思います。 それから、たぶんこれは最後の発言になるんですよね。だから2つだけちょっと言わせていただきたいんですけれども、1つは、私は大変今回のシンポジウムも含めて、今愛知万博のこの問題にかかわらせていただいたことに大変感謝しております。というのは、94年、さっきも言いましたけれども、最初に曽我部さんたちの市民集会に呼ばれて話をしにいったときには、こんなにこの問題、愛知万博に深入りすることになるとは夢にも私は思ってなくて、かなり軽い気持ちでいったわけです。その後、もうちょっ言うと、通産省のワーキンググループみたいなところとかにいろいろ呼ばれてヒアリングとかいくわけですが、嫌で嫌でしょうがなかったんです。「博覧会の時代は終わっている」と言っている人間に、何でこういうふうにお呼びがかかるんだと。でも呼ばれてどっちかというと逃げたいという気持ちが、かなり初期に、しかも企画調整会議の委員になったあたりぐらいまで、なる直前ぐらいまでありました。何とか逃げる方法はないか、何かちょっと一抜けする方法はないだろうかみたいに思った部分がありました。無責任なんで怒られちゃうかもしれないんですけれども、正直に言うとそうです。 ところが、企画調整会議の委員になったあたりから、もうこれはちょっと逃げられないなと。全然喜んでいたんではなくて、むしろやっぱり責任を果たさなくちゃならないというか、責任というのはつまり自分が発言したというか、自分が書いた発言に対して、言葉に対してどう落とし前をつけるかということですけれども、何かそういう気持ちに変わってきました。だから、そういう意味では苦痛だった部分もあるんですね。ただ、そういういろんな動きのなかで、たとえばそれは曽我部さんや、あるいは谷岡さんや、あるいは岩垂寿喜男さんや、あるいは市民参加研究会で一緒に作業をしてきた名古屋の萩原さんや、井沢さんや、佐藤眞紀子さん、いろんな方たちがいますけれども、そういう人たちとの出会いというか、ネットワークができていって、関係ができていって、私自身の考え方、自分がものすごくいろんなことを学ぶことができたし、ここ2〜3年、自分自身の考え方とか、根本のところでは変わらなくても、かなりものの見え方が自分のなかで変わってきたと思います。そのことは、私自身にとってとてもよかったことだというふうに思っていまして、そういう機会が偶然ながら与えられたことに、私はとっても感謝をしています。 それから、これで終わりますけれども、最後に1つだけ。きょうは市民参加の話、あるいは博覧会をどう新しい社会とつなげるのかみたいな話を中心にさせていただいたんですけれども、一言だけ博覧会そのものということに関して言わせていただくと、やっぱり愛知万博がどういう博覧会になってほしいと私個人が思っているかというと、まぶしい未来をどんどん示す博覧会にはなってほしくないんです。それは、大阪万博から新しい技術、新しい未来がこうです、こういう未来をみんな目指しましょうみたいなかたちの博覧会というのはさんざんやられてきて、そういうもの自体が19世紀や20世紀だったんじゃないかという感じがするんです。適当じゃない言葉かもしれませんけれども、むしろどちらかというと、まぶしい未来というよりも、「懐かしい未来」とか「忘れてきた未来」とか、記憶というと非常に抽象的な言葉になっちゃいますけれども、でも何か僕らが既にここにあって、しかしさっきの焼きものの話なんかまさにそうだと思います。焼きものというもののなかの価値をもう一回、その話とも非常につながると思いますけれども、何かそういうふうな私たち自身のなかにあるさまざまな、つまり未来としての記憶とか過去というものをもう一回浮上させていくような場に、むしろなってほしい。そういう未来のあり方が、もっと多様な未来のあり方が、私たち自身がもてるような社会という方が、私は非常に豊かなんじゃないかというふうに思っているからです。 ○司会 ありがとうございました。私たちが、今回「地域の知恵」をテーマにシンポジウムをさせていただいたわけですけれども、「地域の知恵」というのは、決して同床異夢のうえに成り立つものではなくて、共有する記憶、先ほどから吉見さんがしきりに「記憶」とか「夢」という言葉をお使いになりますけれども、まさに共有する記憶の再発見のなかに未来が見えてくるのではないか。そういう新しいタイプの博覧会を、みんなで自律的に支えていこう、あるいは自律的に開発していこうということなのではないか、それが「地域の知恵」の源泉なのではないかというふうに思います。きょうは、結論めいたことが何も出せずに申しわけございませんけれども、大変深みのある議論ができたのではないかと思います。 きょうは、県の博覧会推進局長の森さんにもお越しいただきました。発言する機会をおもちいただけませんでしたけれども、いろんな人が市民社会のあり方、市民参加のあり方に注目している。こういう状況のなかで、博覧会のことがずっと考えられ続けていくことこそ、地域にとって大変大事なことではないかということを申し上げて、きょうは終わりにしたいと思います。 大雪のなかを最後までおつき合いくださった皆様に感謝申し上げたいと思います。どうもありがとうございました。 |
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